恋愛小説は、男性、女性が登場しますが、作家は、男性か、女性のどちらかです。読者も、男性か、女性のどちらかですが、読者は、異性の心を知ろうとしながら読み進めます。
男女の社会的役割が薄れた現代ですが、昔の名作を読むと、男女間の心のギャップを考えるきっかけが多くあります。
今年、初めてのブログで、昔の名作を通じて、男女の心の違いについて、考えてみました。
女性の私が、昔に書かれた名作を読むと、男性作家が書いたものは、男性の視点で書かれていると、しみじみ思います。
一方、女性作家は、女性の心がよくわかる書き方をしています。女性作家は、男性心理はあまり掘り下げません。つまり、女性作家は、男性心理を背伸びしてまで書こうとはしないようです。
これも、小説の書き方による、男女の思考の違いではないでしょうか?
ここで、小説で描かれた男女の心の違いを知るために、男性作家が書いた代表的作品である尾崎紅葉の「金色夜叉」と、女性作家の樋口一葉の書いた「たけくらべ」をとりあげてみます。
「金色夜叉」は、中産階級の娘(宮)が、金持ちの男性に見染められて、幼馴染の同居人(寛一)を振る話です。
振られて怒った寛一が、宮を熱海の海岸で蹴飛ばし、本文では、宮が足に出血したとあります。それでも、寛一にすがりつく宮が描かれていますが、ある意味、これは、男性の理想を描いたものなのではないでしょうか?
女性をどんなにひどい目にあわせても、俺に付いてきてほしいと、男性は夢見ると、私は考えました。そこには、男が保ちたいプライドが描かれています。
しかし、女性が求めるものは何なのか?は、示されていないのです。
女性なら、男性から、口汚く罵倒され、下駄で蹴飛ばされたら、すがりつく女性は少ないと思います。時代背景が違いはあるものの、こうしたタイプの男性は、将来の家庭内暴力の可能性を秘めており、女性はその予感を感じると思います。
操をやぶった浮気女!
覚えておけよ!
一生をとおしてうらんでやる。僕の涙で、必ず、月をくもらせてみせる!
一生を通して、今夜を忘れない。死んでも忘れない!必ず、月をくもらせてみせる。
こんな言葉をあびせる男性に、女性は将来をかけないと思いますよね。
しかし、作家は、蹴飛ばしても、すがりつかれる男性の魅力を、書きたかったのでしょう。
もうひとつ、興味深いのは、小説では、寛一を振る理由が、女性の宮からのせりふとして出ていない点です。
今の女性なら、
「お金のある人と、裕福な暮らしをしたいの!」と言ってしまいそうです。
今の男性なら、こんな言われて、プライドを傷つけられたくないので、言われぬ前に引き下がりそうです。
しかし、当時の女性は、今の女性より、やさしく男性をたてていました。
この頃の女性は、本音を言わずに、男性心理に配慮する奥ゆかしさをもっていたのでしょう。さらに言えば、女性は本音でモノが言えない、弱い立場であったとも言えます。
この当時でも、女性は、暴力をふる男性を、許せないと思っていたと思います。しかし、女性は、それを口に出さずがまんをするしかなかった。暴力や愛人は、日常的だったのではないでしょうか?
家庭内暴力とは、しばしば、男性が自らのふがいなさに対する怒りとして、暴走する部分があると思います。だから、女性もそれに耐えるということではないでしょうか?
そうした我慢が積もり積もって、当時の女性の神経症(ヒステリー)の原因になっていたと思います。
女性が、本音をなかなか、言わないからこそ、フロイドが女性の神経症の治療に、夢分析や自由連想法を用いたと思うのです。フロイドの精神分析とは、しがらみをほぐす暗示療法に近いと思います。
小説の寛一は、自らが貧乏であるからこそふられたわけですから、事を荒立てれば、わが身のみじめさが、ますます増すことになるでしょう。
しかし、そんな現実よりも、尾崎紅葉は、女性をなぐっても、俺についてきてほしいという男性心理を、小説にしました。俺はほれられている、ほれられたい!という男の夢やプライドを描きたかったのでしょう。
そもそも、男性が女性を好きになる理由というものは、何なのでしょうか?男性の性的志向というのも、結局、女性には理解しがたいものとおもいます。
金色夜叉」では、男性たちは、女性の若さ、美しさに強く魅了されています。女性が美しければ、小説の筋が輝くのです。寛一が、自らの一生をかけて愛したものとは、何なのでしょうか?
この点に関して、女性である私の視点を紹介します。
男性は、好きな女性を自分のものとできるかどうかの自分自身の能力にとらわれているのではないかと思えるのです。
男性自身の中で、理想の女性像をつくりあげ、それを獲得できるかの成果に、男性はこだわります。いみじくも、「金色夜叉」の文章には、寛一は、今の宮ではない、以前の宮を求めたいと強く思うと書かれています。
何かを築きたい、人生に自らの足跡を残したいなど、権力や力などを求める志向が、男性は女性より、ずっと強い気がします。
そして、男性の失恋のつらさとは、自身が選ばれなかったという失望からくる落ち込みと想像します。男性自身の能力は、切り替わらない、だから立ち直りが難しいような気がします。しかし、これは、わくまで、私の想像で、男性心理は、もっと、違うものなのかもしれません。
一方、女性は、選んでくれない相手に、いつまでも執着するより、新しい相手を見つけようとします。
いづれにしろ、男女双方に、理解し合うのは、難しいのだと思います。
1925年に書かれたF・スコット・フィッツジェラルドによる『グレート・ギャツビー』にも似たような恋愛が描かれています。
主人公のギャツビーは、お金がなくて、恋人を金持ちに取られてしまいます。そして、「金色夜叉」と似たような場面がでてきます。
「なぜ、俺を捨てた?」と、ギャツビーは怒りながら、元恋人の女性に詰問する場面です。ロバートレッドフォード主演の映画でも息詰まる有名なシーンですが、ギャツビーは、彼の心の中でつくりあげた女性を愛していたにすぎません。
『グレート・ギャツビー』の後半では、女性が求めているものは、男性の愛ではなく、安定した生活であったことが明らかにされます。この映画は、大きな犠牲を払っても、自分自身のことしか考えない女性に対する怒りが描かれています。
金色夜叉では、日本女性は最後までやさしいのですが、西洋の評価では、守ろうとする女性像を、ずるさとして怒りをこめて、描いています。
一方、女性作家によるたけくらべは、とてもせつない物語です。
大きな不幸を前提に、消えていくひと時の耀きを描いた作品です。
小説の冒頭には、吉原という遊郭があり、多くの人がそこから収入を得て生計をたてていたこと、一歩、外にでれば、貧しさが蔓延していることなどが、しっかり描かれています。つまり、美登利の美しさは、逃れられない運命の象徴として、描かれています。
そんな女性心理を描いた場面として、着飾った祭りの日の美登利の様子についての描写が、興味深いです。
祭りの日に、美登利は、贅沢な着物で着飾り、美しい京人形のようだと、周りからほめられます。しかし、美登利には、それがつらく苦しいことでした。
そんな女性心理を理解しない男性たちは、盛んにほめちぎります。小説のなかでは、美しいと言われることが、周りの人から、さげすまされているように、美登利は感じたとあります。贅沢な着物は、将来、客を取るの思いが、少女の心に重くありました。
さて、ここで、テレビの美人女優のことが、ふと思い出されました。
トーク番組に登場したその女性は、アップにもたえる透き通った肌と、美しい目鼻立ちでした。表情が動くと、美しさもさまざまに変化しました。
魅了されている周りの男性たちは、ちやほやと、彼女の美しさをほめました。当の彼女は、早く話題が他に移ってほしと考えている様子でしたが、男性たちには気づかないようでした。
美しいと言うことは、女性にとって誇りでもあり、女優の財産でもあります。しかし、同時に失いやすいもの、維持していくことがつらいものでもあります。もし、整形でもしていれば、うしろめたいものでもあるでしょう。
こうした女性の心理は、女性作家でなければ描けないと思います。
もっとも、努力して獲得した能力とかでなく、持って生まれたものをほめちぎられても、そこにこだわって欲しくないと願うのは、男女共通の人の心理かもしれません。
男女を問わず、人をほめるなら、気の利いたものを1回だけがよさそうです。
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