ノルウエィの森が映画化され、話題が高まっています。私はかつてこの小説を読んだことがあるのですが、著者は表現を厳しく選び取っていて、時間をかけて文章を作ったとの印象を持ちました。そして、読み手の立場で、いろいろな感想がでてくる小説ですが、私は、この小説では、さまざまなうつ状態が描かれていると思いました。ある若い人の感想では、好きな人がいながら、他の人にもひかれる人間の不条理に興味を持ったとありました。若くない私自身は、人の心は変化し多様である(裏切りは普通)ことを、不思議とは思わない年齢です。以下は、私の解釈にすぎませんが、私のこれまでの人生の生きざまをふまえて、小説の解釈を書きます。
まず、一人称で語られる主人公のワタナベ君が、小説の冒頭に、自分自身の存在の一部として、常に共存するものがあり、それに支配されるというように書いています。私の理解では、これが、一般的に言われる“内因性のうつ”ではないかと感じました。著者独特の高い表現力であろうと感じました。恐らく著者自身も、こうした取り付かれた感情にしばられていて、時にうつ状態とつながるであろうと思います。そして、現実の生活で、ストレスが高まると、それに耐えようとする心と、落ちて行ってしまう心のギャップで悩むと思います。著者は、内面的に落ち込む気持ちを抑えながら、矛盾を見つめ思索する若者像を、さまざまに描きたかったかもしれません。
主要な登場人物は、いろいろな程度のうつ状態をかかえています。又、うつの人に加えて、偏執狂的な人や、頭脳明晰ゆえに、社会人としては破綻してしまう人など、登場人物ごとの多彩な精神状態を描いています。そうした人物像は、ワタナベ君のするどい観察眼で表現されています。うつに関しては、ワタナベ君のうつ状態は他の人より比較的に軽く、週日は、(心の)ねじを巻くことで社会生活が送れるようで、ワタナベ君はそう表現しています。又、ワタナベ君は、恋愛も可能で、悩みながらも暮らしていける人として描かれています。一方、自殺してしまった人たちは、重症です。直子さんも重症ですが、彼女には幻覚や幻聴のようなものがあるようなので、統合失調症という病名をつける医師もいるのかもしれません。いづれにしろ、小説では病名はあまり重要なことではないと思いますが、興奮と抑制のバランスをとる脳の神経細胞がうまく機能していない様が、よく書かれています。直子さんは、Sexをすることができないことを自分自身の病気バロメーターにしています。一般的に、精神の病気の人たちは、実際の現在の病気より、将来もっと悪くなるのではないかと悩む傾向があります。直子さんも、ワタナベ君とSexができないことで悩み、病気がよくなっていないと感じて、どんどん落ちて行ってしまったのかもしれません。そして、直子さんは、ワタナベ君が他の人を好きになることを理解し、うけいれたいと頭ではわかっていても、彼女自身の落ち込みを加速させてしまいました。自分自身の病気が重いと感じ、Sexができないことを、人が愛せないというように拡大解釈してしまいました。人は、心に余裕がなければ、性的な興奮もおきにくいわけですが、それを人を愛せなくなったと誤解し、暗い将来への絶望を加速させてしまいました。小説には触れていませんが、直子さんは、ワタナベ君からレイ子さんへの手紙なども読んでしまっていたかもしれません。レイ子とワタナベ君のSexも語られますが、うつが比較的に軽い二人にとっても、Sexは、病気に立ち向かい生きている証として、お互いを感じ合ったのであろうと思います。映画では、Sex描写がかなりあるとのことですが、小説では、Sexは生きるあかしとして描かれているのだろうと感じました。
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