ユングの提唱したアニマ、アニムスは、新たな心の切り替えのきっかけをつくり、自分自身を見つめ直す力を与えてくれるかもしれない。

病気の原因がわからない時は、さまざまな憶測が飛び交う。脳(心)の病気は、現代でも解明途上にあり、今もさまざまな病気の憶測が飛び交う。
 
新聞では心の病気に関する書籍広告が溢れており、売れれば良いの無責任な情報に人々はふりまわされてもいる。
 
今は、心の病気を扱う職種が、さまざまに多様化している。誰でも治療を試みてみることができるし、心の治療には、これを勉強しなければならないというものも無い。
 
昔は、病気の専門職は医者しかいなかった。精神分析学も、フロイド、ユングも医者であった。しかし、医学では解明できない心のトラブルを学ぶためのツールとして、心理学は哲学などと比較されながら進んできた。現代の心理学も、その流れの中にある。
 
しかし、心理学の歴史は、人の心の研究の困難さと混乱を、そのままひきずっているようだ。
 
今、ブログで紹介している河合隼雄著「昔話の深層」は、人の心の普遍的に存在するものは何か?それをどう分析して、心理療法に生かすか?について書かれているようだ。
 
フロイドやユングの活躍した時代には、医学が科学として進み始めたものの、人の心(脳)の働き方についてはまったくわからず、そのジレンマの中で、当時の教養人の知性が、ぶつかりあった時代であった。
 
そのころの多くの学者がそうであったように、現在残っているフロイドやユングの肖像は、威厳に満ちている。当事の医者は、今とは違い、特別の人であった。医者にかかるということは、めったにないことであったろう。
 
当時の医者は、気難しい表情、長いひげをたくわえ、カリスマ的な雰囲気を漂わせていた。
患者たちは、医者の前で萎縮したことであろう。
 
19世紀末にシャルコーという神経学者は、経細胞を染めてその形態を観察して、マリーチャルコー病を発見した。これは今でも使われる病名で、彼が発見した解剖的な変化が実際の病気を起こすとする事実は、現代まで揺るぐことはなかった。
 
しかし、多くの病気とその原因論は、否定と上書きをくりかえしているのである。
 
シャルコーは、ヒステリーが器質的でなく、機能的であることを指摘した人であるという。ヒステリー症状なら、倒れても起き上がることが可能であり、心のあり方でおきてくる症状である。
 
医学では、器質的、機能的という言葉が良く使われる。
まず、機能的という意味は、脳が構造的に壊れて病気になるのでなく、脳は回復しうる。脳の働きが、一時的にうまく進まない状態を言う、一方、器質的とは、脳の具体的な破壊の結果として起きる症状を意味する。

切れるはさみなのに、うまく使えていないために切れないのが機能的障害で、切れないはさみで切れないでいるのが器質的障害である、と言えば、わかりやすいか?
 
フロイドが活躍した時代には、ヒステリー症状の治療法として催眠療法がはやっていた。
もちろん、今ではそんな治療は、まやかしである。今の医師が、患者に催眠術をかけますよ!と言っても、医者の催眠術にかかる人はほとんどいない。
そして、催眠術をかけるような医者に行くな!との評判はすぐにたつ。
 
しかし、当事は、客観的事実が無かった。催眠療法は機能した。しかし、全員にではないし、その過程でフロイドは、多くの疑問を感じていた。
病気の原因究明をめざして、たくさんの学者たちの想像が入り乱れた。
 
医学者は患者と接して、あれこれと試行錯誤をし、違う次の患者の治療を通じて、別の試行錯誤の作業を繰り返した。こうだと思ったら、別の患者ではこうではなかったとか、いややっぱりこうだろうとか・・・。そうした結果、やがて、医者はしだいに独断的になっていった。
 
今でもそうした傾向はあり、先生と呼ばれる人が陥りやすい危険である。だから、自称専門医、自称名医にはかかってはいけない。
 
権威あるものは、権威の中におぼれていくというのは、人間の本質なのだろう。そうした学者たちの離合集散の歴史が、そのまま心理学の歴史となっている。
 
フロイドやユングの考え方は、その弟子によって、ある時は発展しながら強められ、ある時は批判されて潰され、さまざまな派閥に別れて現在に至っている。
 
センセーショナルな心理学者が出てきて、その理論が人気となり、学会をリードしていく。そして、そのフォロワーが増えていくにつれ、今度はフォロワーから厳しい批判を浴びるようになる。
 
心理学には、科学としての絶対的な真実がなく、正しいのか正しくないのかの判断するものさし(科学)を欠いている。しかし、人々の共感を呼ぶものは残っていく。それが、ユングのアニマ・アニムスではないかと思う。
 
心理学が人の心を知るためのものである限り、時代と共に変化し、常に流動的であるのはしかたないことである。
 
もっとも、現在支持されている心理学は、もう少し実践的であり、かつ、科学としての客観性や正確性も求めている。実験心理学などの方向性もある。
 
いづれにしろ、どのような目的で、心理学を学ぶのか?が大事だろう。そして、学んだ結果、限界を感じて、別の学問に移ることもあるだろう。
 
実際に悩める人を救うための手段として心理学を学ぶのか?それとも社会背景をふまえた歴史学として学ぶのか、医学との相違点を学ぶのか?などなど、心理学には、いろいろな切り口がある。
 
心理学を学ぶ過程で、自我、超自我、意識、無意識の言葉が登場する。こうした概念を心理療法に生かすためには、現在の人々の心と、当事の学者が活躍していた時代の人々の心を対比する作業が必要であろう。
 
しかし、今、心理カウンセラーをめざす人が心理学を学ぶとき、社会的背景や医学的背景、さらに両者の関連を学ぶ事は,今や必須であると思う。薬と医学の知識は欠かせない。
 
ある意味では、精神科医のもとで、一緒に心理療法をしている人はラッキーかもしれない。しかし、一方で、精神科医のやり方について心理学専攻者には受け入れられないと感じることもあるかもしれない。
 
これまでの歴史は、医学と心理学は、対立を繰り返してきている。

ノイローゼ、うつ、不安神経症などは、心理療法のターゲットである。心理療法は、クライアントの心がなんらか良い方向へと変化していくことをめざす。
 
心理療法は、才能を要することだと思う。あるクライアントには、機能する治療者が、他のクライアントに機能できなかったりする。治療者に対してのクライアントの評価は、クライアント自身の能力の範囲でしかできない。
類は類を呼びぶものであり、治療者に知識や才能があっても機能しないことがある。
 
治療者にとっては、治療に得意なクライアント、得意でないクライアントということになるのかもしれない。
 
カウンセリング治療の手段として、アニマ、アニムスの概念は、利用範囲が広いと思う。誰の心にもアニマ、アニムスはひそむものである。

悩めるクライアントに対し、アニマ、アニムス論は、心を客観的に考える方向に導きやすいと思う。
 
一つの価値感にとらわれて消耗する人などにも、ユングの提唱したアニマ、アニムスは、新たな心の切り替えのきっかけをつくるかもしれない。
 
たとえば、新聞の悩み相談欄などを見ると、過去のだれだれが憎くてたまらないとか、夫の女性関係に対する怒りが抑えられないとかの強迫観念で悩む女性からの投稿がある。
 
悪い方向へ向かうだけの心の高ぶりは、心の消耗を招く。投稿者本人にも問題があるはずだが、そうしたことはすっとんでしまって、相手に対する怒りで苦しんでいる。
 
クライアント自身から心の切り替えができないと、この苦しい状況から脱せない。
 
アニス、アニムス論を考えながら、治療者と向き合うことで、悩める人は、人や性のあり方を見直し、自らの問題点にも目を向けるようになれるかもしれない。
 
治療者にとっても、アニマ、アニムス論は、過去の治療経験を生かせて、目の前の人の悩みを受け止めやすくなるかもしれない。

自分を客観的にみつめるツールとしても、アニマ、アニムス論は大いに機能するだろう。
 
そうした意味で、ユングやフロイドの功績は大きい。
 
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