サビーナ自身で、思考して精神分析しながら、自らの不安神経症を克服し、成果ある人生を歩んだことが紹介される。

心理学は、人の思考経路やその傾向を学び、人の心の共通性をみつけて分析する学問だ。さらに、人の心の在り方と、その破綻を修正することを学ぶのが、臨床心理学だろう。
 
しかし、文系心理学では、病気の根幹を考える上で、不利な部分があるようだ。
たとえば、ある心理カウンセラーがネットのブログに自らの治療法について述べているのだが、彼の文章では、うつ病の脳内伝達物質論は、あくまで仮説であると書いている。
 
この心理カウンセラーの某氏は、セロトニンの枯渇とか、機能失調とかを説明はしているが、これは仮説なので、本当は違うかもしれないとの記載している。
しかし、仮説の取り扱いを、こんな風にとらえないでほしいと思う。
 
体のしくみを単純化すると、本来の状態からはずれてきてしまう。
幸福の脳内物質セロトニンなどと書いている医学者もいる。
彼の著書の中で、セロトニンを解説しているが、機序を極めて単純化して、かつ、結論的な言い方をしている。
 
知的読み物として、不十分である。
「おいおい、そこまでは、まだ、言えないだろう」と思う記載が多い。
 
人の脳は、ひとつの物質では支配されないし、セロトニンひとつとっても、物質として単純なものでなく、その働きは一様ではない。時には、逆の作用もおこしうる。個人差も大きく、脳の局所での働き方は人さまざまである。
 
セロトニン仮説が、仮説としてとどまっている理由は、将来、この説が否定されるかも・・という意味ではない。
 
脳内で働くセロトニンの動向がまだ解明されていないという意味である。
セロトニンを含む脳内で働く物質、細胞の動態も、すべて解明途上である。そうした意味で仮説なのである。
 
このブログでも、女性ホルモンが不安の原因物質である可能性を述べている。こうした理論は、それなりに根拠があるもので、今後、今の理論がひっくりかえってしまうというものではない。
 
医学の仮説は、思いつきではなく、仮説に昇格するまでには、多くの動物実験、人体実験の結果を踏まえている。
 
セロトニンの働きを抑える薬、増やす薬などを駆使して、セロトニン研究がされている。実際には、セロトニン以外のさまざまな物質が関連して、人の脳は機能している。
 
ただ、今後、セロトニン以上に脳で機能する物質が発見されるかもしれないし、セロトニン前駆物質、代謝物質の方が重要だったとか、仮説は変化し、精度は向上していくだろう。
 
このところ、河合隼雄著作の「昔話の深層」を紹介しているが、人々の心を理解するための材料に、昔話の解釈を使っている。
 
彼はユング派の学者から学んだ人で、近年、公開された映画、“危険なメソッド”は、フロイドとユングの確執を描いたものである。映画に登場するユング、フロイドに加え、女性主人公サビーナも実在の女性であった。
 
この映画は、日本では、ほとんど、ヒットはしなかったようだが、見られた方はいるだろうか?
 
とにかく、映像が美しい。女性は、人形のようにあくまで美しく、そして輝くように白く若い。
 
背景となる湖、緑、水、ヨット、貴族の館のような精神病院も美しくリッチである。
 
病院で働く人々は、真っ白なアイロンの行き届いた服を着ている。病院ナースの制服は、手のこんだ美しいものだ。そしてなによりも、ユングの妻や、主人公の女性たちが身につけているレースの服の美しさは圧巻である。

映像の美しさは、当時の医者や病院が、特別な人のためだけに用意されていたことを暗示しているだろう。
特に時間のかかる精神科療法は、上流人のための個別的医療であった。
 
当時の上流人は、建前でがんじがらめとなり、社会不安に伴い、重度の神経症が多かったであろう。
 
映画の中でも、精神分析の手段として行われる連想療法に、時間と手間がかけられる様子が描かれている。
 
一方、貧しい人たちは、感染症や、職業からくる健康被害などの病気が多くあり、診断もつかないまま、短命であった。
そうした貧しい人や、普通の人は、めったに画面に登場しない。
 
特別の存在である医者たちの部屋は、歴史ある書物や品物にあふれている。
そうした価値あるアイテムのみで構成された映像を背景に、フロイド教授と弟子ユングの理論のずれが描かれていく。
 
史実としても、フロイドは、ユングを後継者に決め、フロイドが創設した精神分析学会の初代会長にユングを据えている。しかし、彼らはすでに対立する存在であったらしい。
 
映画では、ユングが、次第に超現象や、オカルト的な傾向をつよめていくことに、フロイドが激しく批判する画面は出てくる。
 
映画のフロイドは、後半のせりふで、精神分析は、科学でなければならないと強く主張している。しかし、なぜ、二人がこうした対立となっていくのか?ユングがなぜオカルト的な思考に変わっていくのかの過程は詳しく描いていない。
 
むしろ、この映画の主題は、ユングとの恋愛経験に通じて、主人公女性であるサビーナの神経症が克服されていく経過を描くことだ。
 
当初、サビーナは、錯乱するほどの病的感情をかかえている。いわゆる、混迷状態である。彼女は、父親との苦しい幼児体験を通じて、精神が破綻していた。
彼女は、侮辱されているという強迫観念で、苦しんでいた。
 
彼女は、強制的に精神病院に連れてこられたのだ。女優は、心と肉体のアンバランスをたくみに演じている。たとえば、顔の筋肉が異常にけいれんしてしまう(つっぱってしまう)様子などだ。ドパミン不足や、筋肉まひで見られる症状である。
 
しかし、病院のスタッフは、平然とした様子で、暴れる彼女を迎えこむ。当事、こうした錯乱する患者が少なくなかったことを物語っているのだろう。むしろ、当事の社会は、患者が錯乱するまで、世間体を気にして、患者を隠していたということかもしれない。
 
そして、サビーナは、精神病院での治療を通じて知り合った医師ユングと恋愛することで、彼女の苦しい幼児期体験は上書きされていく。つまり、幼児体験が別物となっていく。
 
やがて、その恋愛も彼女を苦しめることにもなるのだが、サビーナはすでに成長していた。
 
サビーナ自身で、思考して精神分析しながら、自らの不安神経症を克服していく。そして、最後のナレーションで、彼女はその後、成果ある人生を歩んだことが紹介される。
 
もっと、映画を注意して見れば、精神分析という学問が始まった歴史的背景のヒントが含まれているだろう。そして、現在に生きる人間の治療に生かすヒントを学べるかもしれない。
 
又、続報を書きたい。
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