梶井は、心地よい方向へ気持ちを集中させ、その状態を維持したいと願う。

学とみ子の病気・健康相談

前ブログで、萩原朔太郎の著書『月に吠える』(田中恭吉・画 1917刊)を紹介した。
 
萩原朔太郎は、1927年(昭和2年)頃から、三好達治、堀辰雄、梶井基次郎などの書生や門人を多く抱えるようになったとウキべディアにある。萩原朔太郎の元には、将来、有名になる作家が多く集まってきていた。
 
梶井基次郎は、そうした朔太郎の影響を受けたひとりで、1901年(明治34年)生まれで1932年(昭和7年)31歳の若さで肺結核で夭折した人である。
 
生存中に、20篇余りの同人誌に小品を残している。死後に評価が高まり、今日では、梶井基次郎は、近代日本文学を代表する人である。彼の代表作は短編の「檸檬」である。
 
梶井基次郎の小説は自伝的なもので、病気、すなわち結核を語る部分が多い。
1925年(大正14年)1月、同人誌「青空」に発表された彼の代表作である「檸檬」も、彼が結核による慢性炎症をかかえて、落ち込む様が良く分かる内容である。
 
梶井は、結核の療養のために滞在した旅館で、川端康成と親しく交わり、囲碁の相手をしたり、『伊豆の踊子』の校正を手伝ったりした。川端康成による「伊豆の踊り子」の文章にも、かなりの梶井の影響があったと、川端自身が後に語っているようだ。

梶井は、自らの結核症状を見つめ、感覚鋭く文字にした点で、結核文学と言っても良い。(結核文学という表現があるかはわからないが・・・)。
 
梶井が檸檬をにぎった時に、その冷たさに解放感を感じた。
そして、その爽快感を味わいながら、その後、訪れた丸善では、再び落ち込む。以前は、楽しむことのできた高級な文具や西洋絵画には、もはや興味を感じることができなくなっていたのである。
 
自分自身の心が、以前と比べ、余裕のない状態へと進んでいる事を知るのである。梶井は、そんな自分の変化に落ち込む。しかし、その時に、美術本を重ねて檸檬を置くことにより、再び、心が解放されてくることに気づく。そして、それを実行して、丸善を出て行く。
 
この行動について、読み人はどう解釈しても自由だが、病気で病む心が十分に伝わってくる内容だ。
 
彼は、いつも自分の体を注意深く見つめている。それは、彼が結核をかかえている事から来る影響が強い。
体の中を異生物が育つような感覚でみつめていたのかもしれない。肩から竹が生えるとする荻原の感覚もうけていると思う。
 
そして、結核から解放されたいと切に望み、生きる力をかき集めようとする。
 
檸檬をにぎるというような、何か小さな行動で、心が解放されていると感じる。しかし、その時間もつかの間、又、元に戻ってしまうことを嘆いている。
 
梶井は、心地よい方向へ気持ちを集中させ、その状態を維持したいと願う。
いろいろな作業をして心の切り替えを企てるが、彼に真の安心感を与えることができない。
結核が治るという、真の安心感がかなわないからであろうと思う。
 
梶井は、体や心の症状をみつめて文章でつづった。何らかの希望を感じたり、落ち込んだり、そうした心の浮き沈みの心情が、「檸檬」で表現されている。
 
ネットで公開されている青空文庫から、彼の文章を紹介しよう。
 

始終私の心を圧えつけていた不吉な塊がそれを握った瞬間からいくらか弛(ゆる)んで来たとみえて、私は街の上で非常に幸福であった。あんなに執拗(しつこ)かった憂鬱が、そんなものの一顆(いっか)で紛らされる――あるいは不審なことが、逆説的なほんとうであった。それにしても心というやつはなんという不可思議なやつだろう。
 
 その檸檬の冷たさはたとえようもなくよかった。その頃私は肺尖(はいせん)を悪くしていていつも身体に熱が出た。事実友達の誰彼(だれかれ)に私の熱を見せびらかすために手の握り合いなどをしてみるのだが、私の掌が誰のよりも熱かった。その熱い故(せい)だったのだろう、握っている掌から身内に浸み透ってゆくようなその冷たさは快いものだった。
 私は何度も何度もその果実を鼻に持っていっては嗅(か)いでみた。それの産地だというカリフォルニヤが想像に上って来る。

「檸檬」は、まだ、彼が病気に余裕を持っていた頃に書かれたものであろう。しかし、結核は進行していく。

その後、1932年(昭和7年)、生涯の最後の年に「中央公論」に『のんきな患者』を発表している。これも、結核を感じる心を書いたものである。
 
結核菌をかかえる体は、菌の増殖を食い止めようと、全身の免疫反応を動員して、菌と闘う。
その結果、当然、人の体には、苦しい現象(症状)が起きる。
 
梶井は、免疫反応が起きる体の症状を見つめ、文字にした。
なぜ病気の元が、なかなか体から消えていかないのかに腹を立て、そうした感情と対比させながら、病気を語った。
体の変化を必死に見つめる一方で、早く治りたい!早く治りたい!彼の心が聞こえるような文章となっている。
 
彼は、体が熱いのを他人に自慢してみたり、肺から出血した血液をコップにとって、ワインだと他人に見せていたらしい。恐ろしい位の自虐的な行動だが、病気を克服したいとの一念が、逆の形で彼の行動に現れていたのだろう。
 
彼は死ぬ直前になっても、弟にむりやり薬を頼むなどして、最後まで、生きることを求めていたようだ。
薬が飲めない程悪くなっていても、薬をほしがった。そんな様子を見て、「覚悟が足らない」と母親が叱った。それを聞いた梶井は「覚悟します」と涙を流した。
 
彼の最後のこの様子は、家族によって明らかにされている。苦しい時間のみが過ぎていく家族たちの修羅場であった。
 
梶井 基次郎は、「のんきな患者」でこんな風に書いている。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000074/files/425_19812.html
 
一度咳をしてそれを乱してしまうと、それを再び鎮めるまでに非常に苦しい目を見なければならない。
つまり咳をしなくなったというのは、身体が衰弱してはじめてのときのような元気がなくなってしまったからで、それが証拠には今度はだんだん呼吸困難の度を増して浅薄な呼吸を数多くしなければならなくなって来た。
 
胸のなかがどうにかして和(やわ)らんで来るまでは否(いや)でも応でもいつも身体を鯱硬張(しゃちこば)らして夜昼を押し通していなければならなかった。そして睡眠は時雨空(しぐれぞら)の薄日のように、その上を時どきやって来ては消えてゆくほとんど自分とは没交渉なものだった。

薄氷を踏むような呼吸がにわかにずしりと重くなった。

この病態を、生理学的に解説することを試みてみましょう。
 
重症な肺炎に陥っている病人の気管支の中には、粘度の高い分泌物が充満している。
気管支の中は、空気が通りにくい。全身で酸素不足になっていて、動けばさらに呼吸が苦しい。
空気が流れるとそれが刺激となって、血の混じった痰と咳がでる。
 
強く咳こめば、次の咳を刺激する。やっと痰をだせたとしても、出しきれない程の分泌物が、まだ、奥の気管支にたまっている。
 
人の気管支は、痰が動くと咳の反射が起きるようになっている。
痰が新しい場所に移ると、そこが刺激され、激しく咳こんでしまうのである。
気管支は、何とかして肺の中にたまった分泌物を外に出そうとする。生物が生きるために、気管支に与えられた仕事である。
 
しかし、すでに傷ついた肺は、血管も弱くなっていて、血管が切れてしまい、大出血したりする。
 
現在の重症肺炎を治療する時、人工呼吸器使用し肺内に酸素を供給するが、いまでも、治療が困難で死亡率が高いのは、肺は強制的な人工呼吸で傷つき、本来の肺の構造がどんどん壊れていってしまうからである。
 
小説の主人公は、気管支の中を痰が動かないよう、そっとそっとした状態を保とうとしている。
 
痰がたまり、腫れて狭くて気管支の中は空気が通りにくい。呼吸を小さく、浅くかつ速くして、酸素を少しでも確保しなければならない。休めば、すぐ低酸素になってしまう。そろりそろりと苦しい息をし続けるしかない。
 
少しでも体が動けば、呼吸困難が増す。酸素が消費されるからだ。そんな苦しい呼吸状態でいる彼の布団の上に猫がやってくる。ふとんにのってきた猫をおいはらうのに、患者は命がけな思いをしている。そして、母親が安らかに眠るのに激しく嫉妬をしている。
 
もし、老人だったら、体力がなく、すでに消えるように眠って死んでしまう状態だろう。咳はなくなり、空気は入らない。
 
梶井の若い脳は、必死に生きることを欲している。 
梶井の若い脳は低酸素に気づき、肺に呼吸をしろとの酷な命令をだす。
しかし、やがて、二酸化炭素が脳に溜まってくると、脳も感度を落とす。命令する力を失うのである。そして、呼吸は止まる。
 
若い人の脳は生き延びることを欲し、眠らせないのである。梶井はそんな眠りを、「薄日のような眠りが訪れる」と表現している。
 
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