一瞬の勝負にかける人たちの言葉には、重みがある。
前回、羽生選手のコメントである「だめな時、失敗やプレッシューを含めて、これが今の私の力として受け入れる」という考え方を紹介したが、その後でも、フィギア選手へのインタビューから珠玉の言葉が聞かれた。
鈴木明子選手 「(失敗しても)たかが人生の一出来事に過ぎない.」、「私としての精一杯がやれればそれで良いです。」
彼らは、失敗してしまう自分自身を励ます言葉をいつも用意している。この切り替えが、次のエネルギーを生む。
試合後の選手へのインタビューに人気があるのは、それを聞く人が、自らの人生にあてはめて、日常の勇気付けや教訓にしているからだろう。ある人は、意識的に共感し、教訓を取り入れているていると思うし、ある人は、無意識的にしていると思う。
フリーを終えた浅田選手が、最後は涙の笑顔になる映像が流れると、テレビにでている多くの人たちが、涙ぐんでいた。
この映像は、日本の胸に残る記録的映像として、人気を保ち続けるだろう。
インタビューでの浅田選手は、感情で声がつまる状態を何度か、咳払いでのどをクリアにして、声をしぼりだしながら、熱い気持ちを語った。良い成績がとれなかった、メダルを持って帰れなかった、ごめんなさいという言葉と、めざしているものができました、恩返しができました、との相交差する感情が混じった心あふれるコメントであった。
浅田は天才であるが故に、トリプルアクセルに取り付かれてしまった。これを飛べれるかどうかに命運をかけてしまったのだろう。
そうした意味では、浅田選手は、ファイナルで飛べて本当に良かった。テレビのキャスターも、トリプルアクセルが飛べるかどうか、それがすべてに影響したのではないかのコメントだった。
金メダルをあきらめた時、トリプルアクセルを飛ぶ気力を含めて、彼女の中で、思い入れの方向が変化したのは確かであろう。
自分で考え、自分で気持ちを切り変えて、次の目標へ向かう姿は、多くの人の生き様にヒントを与えたと思う。
今ある立ち位置で、がんばることが、自分も他人も納得する方法だと、多くの人が思ったと思う。
ショートプログラムでは、トリプルアクセルをほとんど飛べたようだが、最後の部分で転んでしまった。
氷の状態が悪かったためと思うが、こうした氷の条件についてのコメントは選手から聞いたことは無い。
おそらく、氷への苦情は、スポーツマンシップに反するコメントだからだろう。
選手が、飛ぶ前に飛べないとわかると言うが、氷の状態によることも多いのではないか?と思う。
極限状態で氷面に降りるのだから、そこの氷が深くえぐれていたら、ころんでしまう。
今回のSPは、そんな感じだった。氷の表面がよければ、トリプルアクセルが飛べていて、その後の失速は無かったと思わせる転び方であった。
トリプルアクセルにすべてをかけていた浅田選手の、あの転び方が、その後の集中力を失わせてしまったかもしれない。
フィギアは圧倒的に強かったロシアのペアのロドニナのエッジ音はすごかった。
ロシアの牙城は揺るがないと思われた時代が去り、ロシアがアジアに負けるようになった。
フィギア界は、優雅な東洋的な舞の時代となった。
細く妖精のような美しいアジア人の姿が、フィギア選手の美しさでもあった。
今度のソチでは、これからのフィギア界が、又、変わろうとしているのだろう。
飛ぶためには、体重を増やしてはいけない。ロシアの選手は、年齢による体の変化を乗り切るのは難しいらしい。
寒い国では、体が脂肪をためこむように運命づけられている。遺伝子の中に組み込まれた情報があるのだろう。
年齢を問わないフィギアの舞や技術は、これからもフィギアスケートの主流であってほしい。フィギアが、子どものような曲芸になったら、痛々しい気がする。
ひとつのことにこだわる人生は大事なことではあるが、それは時に病的なものとなる。
精神科において強迫神経症と呼ばれる病気があるが、その中でも厄介なのは、死ぬことに脅迫的にとりつかれてしまう場合である。
人は、今、死のうと思うとき、あるいは今は思いとどまって死なないでおこうと思うとき、どちらにしても、気持ちが極限に集中することになる。その極限に、人が病的にとりつかれてしまうようだ。
ひとつのことに取り付かれてしまった人が、周りの人の気持ちを思い出すことで、究極の行動が避けられるケースもあるだろう。
SP後の浅田選手は、トリプルアクセルを飛びたいと脅迫的な思い込みをマイナスとし、新たに気持ちの切り替えを測ったであろう。
周りの人への恩返しをめざすという方向に向かって、気持ちの切り替えをしたようだ。視点を広げて、チャレンジすることの重要性を、学ばせてもらった気がする。
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