アドラーの心理学で、“他人にとって困った行動でも、本人にとっては、必ず、目的がある”というのがある。

 
70歳近い普通のおじいさん同士が、中華レストランで会話をしていた。
 
彼らは、どっぷり浸かった老後生活の風情で、もう身なりにもかまわず、ぐっちぽい老人同志であった。もぐもぐと語尾が不鮮明な話し方であったが、しかし、彼らの会話内容は、男性特有のするどいものであった。レストランにいた、このAとBのおじいさんは、彼らより若い知人の誰かについて語っていた。
 
Aのおじさん: ○○は、相変わらず一言もしゃべらない。1年前とまったく、変わらない。

Bのおじさん: あいつ、しゃべるようになるのか?

Aのおじさん: いやあー、あいつがしゃべるようになったら、本当に頭がいかれた時だよ。しゃべらないからやれてるんだよ。
 
この会話を聞いていて、アドラーの心理学に出てくる言葉で、“人の行動には、目的が必ずある”というのを思い出した。
 
例えば、ひきこもりを例にあげると、ひきこもりには目的があるとする。
単に、会社に行けない、会社で傷つくのを避けたいからではない。ひきこもりで、多くのチャンスを失うのは事実だが、一方で、その時に必要とする大事なもの(益)を得ている。
 
他人に心配をかけるということも、益のひとつになりうる。ひきこもる自らの意思を通し、周りを認めさせるというのも益のひとつだ。
 
ひきこもる人は、ひきこもる結果に得られる“何か”に依存している。その“何か“を目的とする限り、ひきこもりがつづいてしまう。
 
ひきこもりの原因の”何か”は、人によって異なるし、そこへの依存度も異なる。ひきこもる人は、ひきこもる結果に得られるものを捨て、ひきこもりを止めようと自ら思った時には、ひきこもりは終了する。
 
Aのおじさんは、人と全くしゃべらない噂の人の“困った行動“について、それには目的があると言っていた。しゃべらないという行動をとって、その噂の人はメンタルヘルスを保っていると言いたいのだ。もし、保てる力が失われて、しゃべりはじめたならば、本当に頭がイカレタ時!だ、と言っていた。
 
ひきこもりや登校拒否などを治療している過程で、精神科やカウンセラーなどの治療者の行為で、クライアントが自殺してしまうことがある。思わぬマイナスのイベントを招いてしまうことが起きうる。
 
登校拒否の子どもが、学校に行くようになり、親やカウンセラーが、やれやれと思った時に、子どもが自殺したりするのである。
 
ある人の行動が、他人から見ると、困った行動やこだわりであっても、それをしている本人にとっては、何か大事なメッセージであったり、志向であったりする。困った行動やこだわりをすることで、メンタルヘルスを保とうとする努力の部分があるのだろう。
 
困った行動には、そこに至るまでの長い葛藤がある。女性が、夫に抱く葛藤にも、口に言えない長い間の環境があるのではないかと思う。
 
新聞の書籍紹介欄に、ある作家の随筆集の紹介記事があった。
 
紹介内容によると、随筆集は、作家が日常の苦しさを見つめながら、老いて死ぬことを直視して書いたものであるという。
 
老境に達した作者は、日常的で解決できない苦しさに直面していた。日常的な苦しさのひとつが、妻の病気であった。妻が原因不明の慢性の痛みを訴えて、毎晩、苦しくて泣き叫ぶのだそうだ。それを聞きながらも、どうすることもできない夫も、又苦しんでいた。
 
この人の妻の病気が何であるかはわからないが、この女性を例にして、女性の苦しさについて想像を膨らませてみる。
 
作家である夫は、いつも思索し、妻が入り込むすきはない。作家の妻となった女性は、夫のとの間に深い溝を感じていたのかもしれない。この妻は、夫の関心を見つけようと長いこと、葛藤し続けたのかもしれない。
 
メンタルに苦しいことを抱える女性は、体の痛みに訴えることがある。医師は、こうした原因不明な痛みを心因性と扱い、抗うつ剤を投与することがある。
 
医学的な痛みは、炎症の結果である。炎症の結果、機能障害が起こる。つまり、痛いだけで、体が変化していかなかったり、検査が異常にならないタイプの痛みに、医師は疑問を感じるようになる。
 
何か炎症による痛みであれば、だんだん、体が働かなくなるはずだ。しかし、メンタルな痛みでは、そうした障害は起きにくい。夫は医師から、こうした説明を聞くかもしれないが、妻は納得しないだろう。
 
妻がこうしたメンタル障害を抱えれば、妻の免疫は低する。体内に潜む慢性のウイルス活性化もあるかもしれない。とにかく、女性の慢性の痛みについては、多様な状況があると思う。
 
女性の希望がかなわぬ時、女性は、体の症状を出しやすい。いわゆる身体表現性不安障害である。
 
女性は、自らの主義主張を認めてほしいと感じている。満たされない女性に、この病気が多いのは、当然と言えるだろう。生活の糧を他者に依存した女性の毎日は、不安の連続と言っても良い。良い妻でありたい、がまんできる妻でありたいと望む一方で、それが苦痛で、気持ちが破たんしてしまう。
 
生涯の人と決めた夫に対して、夫の相手になれていないと感じてしまう妻の苦しさはいかばかりか?妻は、自らが夫にふさわしくないとした劣等感を感じてしまうかもしれない。そんな状態の妻にとって、他の女性の存在がちらつく時、ますますメンタルが異常になってしまう。孤独を感じる妻にとって、夫の気持ちをつなぎとめる手段として、体の痛みが出てきてしまう事は容易に想像できてしまう。
 
病気は、てっとり早く、相手を振り向かせる手段となりうる。痛みは、他人にはわからず、自己宣告である。痛みとはその人自身が感じる症状であり、誰もが否定できない。つまり、自己主張の最たるものである。

物を書く人の妻になった人は、孤独だろう。結婚後、子どもにも恵まれ、ひととおりの子育てが終わってしまえば、夫とは思考レベルにおいてギャップが大きさと感じるだろう。
 
もちろん、そうしたギャップに悩まない女性も多くいるだろう。
 「彼は商売なのだから、頭が良くて当然よ!ハハハ」と笑い飛ばす妻もいる一方で、真剣に悩む妻もいるかもしれない。強い劣等感を抱く女性は、長い間、傷ついてきたと思う点があるのかもしれない。
 
妻の体の痛みに対し、夫は、最初、心配してくれたりするだろう。しかし、妻の痛みが慢性化してくると、夫の関心も薄れてくる。まして、医師からメンタルによる痛みなどと説明を受ければ、夫も戸惑い、困ったものだと考え始める。そうなると、妻はますます痛みを強く主張するようになる・・・。妻の痛みは、夫に対する切なる要望の手段である。

心理療法の箱庭、絵画療法などにおいても、その療法を試みることにより、クライアントが興奮したり、落ち込んだりしてしまい、治療が悪い方向へ向かってしまうことがあるようだ。
 
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