著書“セラピスト”考II: バイバイを聞いたカウンセラーが心から喜ぶ。問題児は、カウンセラーに、愛情と興味を表す。問題児が、周りの人に配慮を示せるようになった瞬間だ。

 
 
 著書“セラピスト”考 II
 
心理療法に懐疑的だった著者の最相は、ついに、尊敬できるセラピストである精神科医の中井に会うことができた。
 
最相は、中井を尊敬している。中井は、学生時代からフランス語の詩を訳す語学的才能を持ち、サイエンス研究の頭も持ち、精神科医師になってからは、常に、患者の傍にいる人間像だ。

若いうちから、統合失調症患者の病態の臨床研究に熱心に取り組んできた中井に関する情報を、最相は入手していた。
インタビューのために、中井の家を訪れた時の、最相の緊張具合が、良く書かれている。
 
実は、中井は、最相と面談する前から、すでに大きな影響力を持つセラピストになっている。治療が始まる前から、クライアントの最相は、満たされていた部分がある。

そして、実際に中井から、絵画療法を受けながら、改めて、最相は、中井の大きさに感動している。最相の考えていたセラピストのあるべき姿を、中井に見出したのであろう。中井のさりげないしぐさや、会話の間のとりかたに、最相は、中井の深い思いやりを感じるのである。

実際に、病める人に対し、どの程度に、心理療法が、機能しているのかは、わからないが、セラピストに求められるスキルは、膨大なものが期待されているであろう。しかし、クライアントは、望むものの膨大さに、きずいていない。
それは、普通の才能では、果たせないような能力であり、故に、多くのカウンセリングは、機能し難いのではないだろうか?

カウンセラーには、美人(あるいはイケメン)が多いらしい。しかし、カウンセリングが、うまくいかない場合は、容姿が災いすることもあるかもしれない。クライアントは、心の余裕が少ない人たちである。ゆえに、セラピストは、豊かで穏やかな人格と、才能に溢れていることが求められる。

クライアントの知的レベルや志向は、均一ではなく、クライアントの悩みは、さらに多様だ。Aさんには良くても、Bさんにはだめかもしれない。最初、Aさんに良くても、途中からダメになるかも・・・。

大学や大学院で心理学を学んだからといっても、学べるものは微々たるものである。養成学校や教官の質も、一様ではなく、セラピストを養成するに足る実力のある教官は、少ないだろうし、才能ある人が、世の中にそこそこ存在しているとは思えない。

業績を残す心理療法士であれば、周りの教官ですら、飽き足らないのであろう。
ほとんどの一般人は、どんなに受験勉強をしても、東大の入試には受からない事実と似ている。
 
優秀なカウンセラーになるのは、25年かかると言われるらしいが、むしろ、この意味の解釈は、25年間、カウンセラーとしてやれた人なら、才能のある人であるという意味だろう。
 
 中井も河合も、結局、自らで心理療法の手段や、カウンセリングの戦術を編み出している。
 
セラピストが医師である場合は、相手(患者)が、医師という先入観で一目置いてくれるが、カウンセラーは、そこすら、自ら醸し出さなければならない。当然、宗教などに逃げ込んではいけない。

著書“セラピスト”にもでてくるのだが、影響力を残したセラピストは、周りの上司など、他人のアドバイスに満たされていない。たとえ教官からのアドバイスであっても、物足りなさを感じる。
 
悩める人を前にして、その場で、セラピスト自身で感じ取れる、流動的な感性を持ち合わせなければならない。そうした、元々の感性が優れていないと、機能するカウンセラーにならないだろう。
感性を高める努力をすることは、無駄にはならないと思うが、学んで得られるようになるわけではないだろう。

 “セラピスト”では、事例の紹介も豊富だ。

こだわりの強い小1の子どもの治療を、女性カウンセラーの木村氏が、箱庭を用いて治療する経過が書かれている。この問題児は、周りの人への興味がなく、一人遊びしかしない。
 
カウンセラーの木村は、河合学派の女性心理療法士であり、河合から、直接、箱庭療法を教わっった人である。つまり、河合の人となりを語っている。

木村は、箱庭を通じて問題児と会話する。問題児は、全くのマイペースの子供で、同じ箱庭をいつも作る。カウンセラーの木村は、待ちの姿勢である。長い時間と回数をかさねて、問題児とカウンセラーが接点を持っていく。

木村は、この問題児が、箱庭療法を重ねても、全く改善していかないことに悩む時期があった。その時に、相談を受けた河合教授は、他の上司からアドバイスをもらうように薦めた。しかし、この時、上司のアドバイスは機能しなかったのである。少なくとも、この子供の治療に対しては、木村の方が熟達できているからである。
 
つまり、カウンセラーの当事者でなければ思いつかないことがあり、そこに気付くことのできるカウンセラーが、真に優秀な結果を出せるということではないだろうか?

そして、ついに、木村は、それまで大きな変化を示さないマイペースの子どもに、次第に変化が出てくることに気づくのである。ある日、問題児が、カウンセラーの木村に、「バイバイ」と言った。
 
バイバイを聞いた木村が心から喜ぶ。問題児は、そうした様子のカウンセラーに対して、愛情と信頼感を感じ、それを表現できるようになるのである。問題児が、カウンセラーに配慮を示すようになった瞬間だ。
 
子どもは、カウンセラーの木村の笑顔を見て、他人との関係づくりを学んでいく。カウンセラーの木村は、寄り添いながら、子どもの心を開いていくのであろう。

無能な医師、無駄な診療、無効な薬でも、ある程度の間、商売としてなりたつ。
期待してあきらめるまでに、時間がかかるおかげである。
そこまで待って、やっぱりそうか!と悟る。
 
期待が裏切られれば治療は終わるが、又、次の別の人が期待して、治療が始まる。実際のユーザーは、次々と、別人になっていく。
漢方薬や、ヒアルロン酸、コンドロイチンも、そうした類のものである。

目前のカウンセラーに満たされないクライアントは、「しかたない!」 と感じても、しばらく、カウンセリングを続けてくれるだろうから・・・。

人には、元々、治る力を備えており、カウンセリングが機能しなくても、クライアントは良くなっていくことが多い。つまり、心の状態には、クライアント自身が努力していく部分が大きい。

こうした場合でも、カウンセリングが無駄だったと結論するのは、難しく、不可能だ。
カウンセリングをしなかった場合との比較が、できないからである。
 
こうした現状は、カウンセリングに限らず、医師でも、整体師でも、似たようなところである。

続く・・・。
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