著書“セラピスト”考 III
“セラピスト”の読みどころのひとつは、セラピストとクライアントの間の不信感を、いかにして、信頼感に変えて行けるかのヒントに満ちている点である。
つまり、カウンセリングは、忍耐と才能を要し、大変なことなのだと書かれている。
前回のブログで紹介したように、著者の最相は、臨床心理士の仕事ぶりに、疑問と不信感を抱いている。カウンセラーの平凡さにがっかりしている。しかし、本が進むにつれ、最相は、他人の心を癒すという仕事は、とても難しいことであることを書いているのである。
カウンセリングを受けた人の多くは、実際の目の前のカウンセラーに満足できない。
しばらく、カウンセリングを続けても、だめだ!とあきらめるしかない。
その時、クライアントは、「私の担当のカウンセラーとは、合わなかった。」と思うだろう。
他のカウンセラーなら、大丈夫かもしれないと、新たな期待をする人もいるだろう。
心理療法を希望する時、カウンセリングそのものの難しさを、最初から想定しておく必要がありそうだ。
優秀なカウンセラーであっても、評価には時間がかかる。
だめなら、どこかで、あきらめることも必要だ。あきらめから生まれるものがある。
他人の心に寄り添うためのカウンセリングの難しさに気付けば、その経験は無駄にはならない。
「他人に頼っていても、どうにもならないものなのだ!結局、こう思えるようになったのは、カウンセリングのおかげかもしれない・・・」 と。
カウンセリングが駄目と感じるなら、その人自身で駄目でないものを見つけていかなければならない。
カウンセラーに対し、配慮を示せる人は、結局、自分自身で治す力のある人である。
ネットに、カウンセラーの悪口を書く人もいるが、他人を非難すれば、本人のメンタルは悪化する。
短時間の勉強でカウンセラーになれます!という民間の広告があるが、それを出しているような人が、優れた教官であるわけがない。
著書“セラピスト”の話題にもどるが、初対面時の中井は、最相にとっての先生であった。最相は、中井を尊敬し、二人の間には、豊かな時間が流れた。
その後に、教授職を退職した中井が、最相に申し出た事は、セラピストとクライアントを逆転させて、絵画療法を試みる提案である。著書の後半では、逆に、中井久夫は、最相葉月から絵画療法を受けている。
これは、クライアントとセラピストが相互に尊敬し合えば、その立場すら逆になることができることを示す。
中井は、レポーターとしての最相の力量を認め、中井が、世に残したいと思うことがあったからであろう。
元々、心理療法が機能するのは難しいわけだが、セラピストも、そこを良くわかっている。だからこそ、セラピストは、新しいクライアントを迎える時には緊張するだろう。セラピストは、クライアントの要望に答えられるのか?カウンセリングが効果をあげられるか?に神経をつかい、不安を感じるのである。
著書の冒頭で、中井と最相の絵画療法が書かれているが、この面談は、最相が中井に取材を申し込んで、可能になった。
面談を申し込む際には、最相は中井への尊敬を十分に伝えていたと思われる。
それでも、取材を申し込まれた中井には、不安はあったと思う。
中井の業績を、最相が、どのようにレポートとして書くのか?についての中井の懸念である。
このあたりのことは、著書“セラピスト”には、あまり、書かれていない。
恐らく、中井との面談の間、尊敬する相手を前に、最相は自分のことで目一杯であったのだろう。そして、中井の気持ちを観察する余裕が、最相に無かった。
クライアントが面談室に入ってきてから、帰るまでのすべての行為が、カウンセリング治療の一環である。
セラピストは、クライアントが部屋に入ってくる様子や、挨拶を観察する。最後には、クライアントが満足して帰るか?を見る。そして、クライアントがどこでセラピストに満足したかを考える。どこで不満そうだったかを思い出す。
セラピストは、穏やかなやさしい笑みを浮かべていても、セラピストの心は複雑だ。疲れる作業であるだろう。
絵画療法をする中井は、クライアント最相が紙に向かう様子や、作画の躊躇などを見ている。特に、クライアントが最初に線を引く時の躊躇(特に、手のふるえ)などは、注目すべき点ではないだろうか?
初対面時、最相の言葉を借りれば、セラピスト中井の様子は、ひどく落ち着いていたらしいが、中井には、職業人としてのポーズが身についている。しかし、中井の内心には不安はあったであろう。
この初対面の絵画療法の際に、中井の前で最相が書いた絵が、“セラピスト”の口絵で紹介されている。この絵は、中井が枠を書き、その後に、最相が絵を書いている。
口絵に紹介されている絵は、中井が書いた枠であるが、枠は少しゆらゆらとゆれているのである。このゆがみは、その時の中井の心の動揺を表してはいまいか?
中井と最相の絵画療法が進んでくると、言葉を交わさずして、最相と中井の信頼感が通じ合う。
最相が絵を書いている間、中井は最相の気持ちがあせらないようと、気づかい、猫と遊んだりしている。
しかし、こうした一見、無駄に見える中井のしぐさや時間の取り方は、大事な間(ま)である。最相の様子を観察する手段の一環でもある。
何気ないやりとりに見えるが、ある程度、計算されたものであり、意図されたものである。
絵画療法において、書かれた絵の解釈が重要であるだけでなく、間(ま)や会話などに、セラピストとクライアントの人がらや、性格がにじみでるものがあるのだろう。間(ま)の取り方で、お互いの配慮を感じある。
人が何気なく瞬時に取る行動は、自然に湧き上がるもので、とりつくろいができない。
米国の大統領選挙の際の選挙演説でも、とっさの言葉で、聴衆の心をひきつけたり、逆に、失ったりするものである。瞬時で出る言葉は、その人の本音の心を物語る。
カールロジャースの理論を紹介する文章に、セラピストに大事なのは、理論ではなく、勘であるということが書かれてあった。セラピストとクライアントがかわす会話において、その内容が問題になるというより、むしろ、会話の間(ま) の取り方や、沈黙を続ける時間と、それを破る時のタイミングが大事なのだという。
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