アナ雪考III:メンタルのトラブル(脳の一過性の傷)は、考え方次第で、回復が可能であるとのメッセージを感じるのである。

 
劇中歌「Let It Go」の日本語訳は、“ありのままに”だが、「Let It Be」の方が、この日本語訳の、“ありのまま”に近い。
もちろん、この題名のビートルズの歌があるため、この題名をつけるのはだめである。
“ありのまま”には、日本語による意訳である。キャラクターの口の開き方とも、あわせたと言う。
 
「Let It Go」は、風だの、嵐などの自然現象は、共通だが、エルサの気持ちは、英語のオリジナルからかなり変えられている。映画の解説書にも、左の英語と、右の日本語の歌詞が並べてあるが、正直言って、訳ではない。左と右で、意味が違う。
 
日本語訳だと、彼女自身で決意して、生き方を変えたとの印象だが、英語では、そうは言っていない。人々に魔力がばれてしまったので、エルサは、生き方を変えざるをえなかったのである。英語の方が、エルサの苦しさを、ストレートに言葉にしている。
 
英語の「Let It Go」の本来の意味は、もう少し、積極的な行動をめざす言葉である。
つまり、ざっくり言っての日本語訳は、「なるようになれ!」だ。
ありのままより、もっとつきはなしたニュアンスの言葉である。

さらに、ざっくりさせるなら、「ばれたからにゃあ、しかたねえー」とした言葉のニュアンスに近い。
実際に、エルサの英語の歌詞は、もう、ばれてしまった(英語歌詞は、彼らは知ってしまった)!過去は過去よ!、完全な人でいることは終わったの!
とある。
 
エルサは、良い子を捨て、孤独でも良い、自らの意思を大切にする生き方を選択した。
彼女は、長い間、良い子でいること、不安を隠す事、怒りや不安をコントロールすることを強いられてきた。
 
エルサ自身も、不安を隠し、王として、人々の信頼を得る立場になりたかった。しかし、それは失敗した。感情を隠す生き方が、元々、人間の本質からずれているからである。
 
もはや、彼女の希望は消えてしまったのである。
街の人々や子供たちが、皆、エルサを怖がって逃げた。
ここが、まず、観客が泣けるところだ。

「Let It Go」は、エルサが、自らが望んでいた人生をあきらめ、新しい生き方を決意した時の歌である。
もはや、彼女の希望は消えたからである。
 
日本の歌舞伎で、変装の正体がばれて、「ばれたからには、仕方ねえ!」と、啖呵を切るせりふがある。
大事な時に、人の発する言葉が、東西、文化の違いを超えて、共通するのは興味深い。

この歌は、それまでのエルサがどんなに、恐怖と不安とたたかってきたか?がわかる。
それは、彼女が国を背負う女王になる人であり、親(王)が、エルサに不安を隠すように育ててきたからである。
 
彼女自身、魔力を持ってしまったという不安を、抱えているだけでも、つらいのに、そんな彼女に対し、親(王)は、負担を軽くしてあげられず、かえって、エルサの不安を高める方向で子育てしたのである。
不安を隠して、何事もないようにふるまうようにと・・・・、エルサの行動を制限した。
 
しかし、そうした王を非難することが難しい。それは、王も、世継ぎの娘に起きた非常事態を解決する術を見いだすことができなかった。その思いが、観客にはわかるからである。
娘に重い負担をしいることになっても、王は、娘に良かれと信じたことをするしかできなかった・・・。王と言えど、なすすべがなかったのである。
 
病気の子供が生まれた時、親が病気を隠そうするほど、子どもの心に負担を残してしまう。
 
身体的な病気でなくとも、子育ての途中で、親になす術がない状況になることは、しばしば起こるだろう。
息子、あるいは娘が、メンタル障害をかかえて、自殺を試みる、暴力に走る、薬物におぼれるなど・・・、子どもが成長する時点で、親が子供を抑えることができない出来事は少なくないだろう。
 
一方、アナは、何と言ってもヒロインであり、まっすぐで努力を惜しまず、魅力ある女性である。
しかし、この映画では、彼女の行動に対しては、批判的にも描いている。
 
アナは、エルサの苦しさや悲しさを理解できないのである。賢いエルサは、親の重い期待に答えて、ずーと、自分を抑える努力をしてきた。一方、まっすぐなアナは、自らの思いをぶつける生き方しかしない。
それは、長所でもあるし、短所でもある。
 
アナの行動は、他人から見れば、無鉄砲で実力が伴わない。多くの感情的な行動が描かれている。
山を素手で登ろうとして、ほとんど登れていないにもかかわらず、頂上は近いか?などと、放言したりする。
 
人は、しばしば、意味の無い行動に取り付かれて、それを実行しようとする。
岸壁の母のように、自己満足にすぎないのに、それに気づかず見当違いの努力する。
他人の思惑を考えず、本人は、一生懸命にやったと自己評価する。
 
最も、岸壁の母のケースは、事が事だけに、他の人が批判することができない。
だからこそ、メッセージ力のある歌になる。
 
人は、何か願い事をかなえるために、○○断ち、神仏へのお百度参りなどの行動をする。
女性は、そうした行動に取り付かれやすい。
しかし、期待の対象である相手の人にとっては、迷惑であったり、負担であったりする。
 
子どもの病気を治したい一心で、駆けずり回る親がいる。
すでに治療が終わり、医療の限界である時、医師から、通院の必要はないと言われても、母が納得せず、医者に通わせ続ける、そして、それを、成長した子供に、母が自慢気に語る。
「私が治してあげたの」と、言いたいのかもしれない。
 
 「私がなんとか治してみせる!」という親のせつない思いであろうが、医療の限界が理解できないのである。
 
親にとって大事なのは、子どもの病気に変化があれば、通院していた元の医師に行くことなのだ。
しかし、こうした親は、しばしば、以前の医師にかからず、他の医師に行く。
そして、新しい医者に、子ども病気の経過を話せない。元の医師の言葉が理解できていないのだ。
元の医者ほど、子どもの情報を持っているし、病気を評価できる医師なのである。
 
話しが逸れてしまったが、元にもどすと、アナ雪では、人間の脳の特徴が語られている。
エルサから攻撃を受けて、アナのハートが致命的に傷ついた。
このシーンで、脳の傷は、治すことが可能だが、ハートは治せないというくだりがある。
トロールと呼ばれる石でできた魔術師たちの言葉だ。
 
脳は、たくさんのことを、勝手に錯覚してしまう。
だから、脳の錯覚なら、直すことが可能だとを言いたいのだろう。
うつや不安神経症、そして統合失調症などをも、暗示しているかもしれない。

メンタルや脳神経の病気に対し、予後の悪い場合をハートの病気とし、回復可能なものは、脳の病気としているのかもしれない。
 
脳は錯覚してしまうと、間違ったことを、真実であると思う。
脳の錯覚をイメージするのは、床屋の赤と青のラインの回るネオンサインの看板を思い出してほしい。
この看板はどう見ても、下から上へとラインが流れていくように見える。
実際には、単に、平面の台座の軸がまわっているだけなのである。
 
こんなものをながめているだけでも、脳がどんなに勝手に人を錯覚に落とし込むか想像することができる。

タバコがやめられない。
薬物中毒となる
買い物中毒となる
なども、脳が間違った強迫神経症を教え込んでしまった結果である。
 
アナ雪は、エルサの心の変化を描くことにより、心の病を回復させるコツのようなものを描いているようだ。
メンタルのトラブル(脳の一過性の傷)は、考え方次第で、回復が可能であるとのメッセージを感じるのである。
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