ウッディアレンは、永続的な男女間の愛に、絶望感をつきつけている。先を行くアメリカにおける男女関係から教わる事は多いようだ。

 
映画やドラマは、生きるためのメッセージやヒントにあふれていると、前回ブログで書いた。
作家は、主人公に、逆境のストリーを設定し、主人公がそれを克服する様子を演じさせる。
 
観客は、映画やドラマの世界にはまりながら、自らの現実の生活では、失敗や破滅が起きないよう想像力を高めている。
 
先日、観た映画、ウッディアレンの監督、脚本、主演映画 『僕のニューヨークライフ』(Anything Else) はこうした志向とは、やや違う。
 
2003年のアメリカ発のこの映画は、監督の強いメッセージを、映画の使命としている。
男女の本質的な違いを、怒りをこめて描いている。今回は、この映画をコメントしたい。
 
この映画は、ウッディアレンが、実生活で経験してきたであろう、女性への怒りがぶちまけられている。
女性は、わがままであり、かつ、考えに一貫性が無い!と、女性に対する怒りをつづったものだ。

映画は、女性のわがままを これでもか! これでもか! と、ストリーに入れ込み、観客にメッセージを送っている。
 
ウッディアレンは、男女の違いを描いて、“こうならないために、どう生きるのか?”の命題を、世間に問いたいのだ。
 
観客となる世の男性には、女性にはあきらめろ!との教訓を送り、一方、観客となる女性には、傷つく男をもっと良く知れ!というところか?
 
ウッディアレンは、永続的な男女間の愛に、絶望感をつきつけている。
日本も、男女の個人主義化は進んでいき、先を行くアメリカの男女関係から、教わる事は多そうだ。
 
若いうちは、男性は、女性の性的魅力にふりまわされざるを得ない。
これでもか、これでもか、と繰り返される若い女性の身勝手な行動から、映画が始まる。
 
そして、その後も、女性のわがままが続く。ウッディアレンは、男性にとって求めざるを得ない存在として、女性を登場させ、この魅力ある生き物に対する怒りを描いている。
彼は、女性の知的能力の欠如も、問いたいようだ。しかし、それは、全く、男性視点である。
 
これが女性視点であれば、解釈は少し変わってくる。
女性に同情的になるのだ。女性を責めても、しかたないでしょうということになる。
 
特殊な場合を除けば、男性を虜に出来る女盛りの時期は短い。無条件で、女性が男性から求められる魅力は、女性が努力して獲得したものでもない。
この短い期間だけとらえて、こんなに女性を非難がましく描かなくて良いではないか?と感じるのである。
この短い時間に限って、女性は特別の能力(魅力)を発揮できる。
美人であれば、能力の量が多く、長続きするが、美人は失うものも多く、落ち込みも大きいだろう。
 
そして、結局、愛や魅力を失った中年過ぎの女性の行きつく先は厳しいと、女性は考えてしまう。
ヒロインのメリンダが、中年を過ぎたら、悲惨な人生になっているのではないか?と、女性は予想する。
わがまま顔で、通っていた人ほど、その悲惨さが増す。
 
女性の愛情は、元々、終始一貫はできない。女性の価値観は、男性のさまざまな状況に左右される。
女性が、評価できる男性とみなせば、愛情も伴うのだ。
 
やさしい人であるとか、思いやりがあるとか、女性を大事に扱う人であるとか、イケメンであるとか、有能であるとか、世間から信頼されている人であるとかは、女性が愛情を持つために大事な条件だ。
 
さらに、夫に社会的立場があれば、妻は人生の満足感を味わえるであろうし、お金があって安心でリッチな生活をさせてくれる夫なら、妻の誇りだろう。
 
しかし、愛情を抱いたとしても、その男性が変化していき、その影響を受けて、女性が変化していく。
男性の価値が変動することによって、女性の愛も変わっていく。
 
状況に応じて、女性が、その男性を好きになったり、嫌いになったりしてしまう。
大事にされないと思っている女性が、他の男性から大事にされれば、そこにおぼれたりする。
女性にとって、終始一貫した信念を持つ事が難しいのだと思う。
終始一貫した信念を貫くのは、女性には難しいのだ。
 
この映画の、女性ヒロイン(メリンダ)は、女優の卵である。過食症もあり、タバコ中毒、不眠症、パニック障害もあり、こうした女性を妻にすると、男性は苦労するタイプの女性だ。
 
一方、主人公の男性は、この彼女(メリンダ)の性的魅力に取りつかれていて、二人は同棲している。
彼女の方から、母親連れで、男性の部屋に押し掛けたような関係だ。
 
同棲しているメリンダから、男性は、ひどい目にあわされても、彼女を求める。若い美しい彼女は、彼を踏み台にして、安心して人生をすごす。
映画でも、彼女はまったく身なりにかまわない。しかし、それでも魅力的なのである。
 
この彼女が、仕事で知り合った男性としじゅう浮気をする。恐らく、彼女は、女優として成功するために、男性との関係を持つことを利用しているようだ。
 
メリンダは、利用していると言うより、別の男性に魅力や愛情を感じてしまうのだと思う。仕事上で、必要だったり、尊敬できたりするからだ。しかし、新しい恋人との関係が破たんすれば、又、元の男性に戻ったりする。
受け身で生きる立場では、こうした変わり身の早さは、しかたない面がある。
 
メリンダは、同棲相手の男性に、魅力を感じる時もあるし、邪魔に思うこともあるのだろう。
それは、男性から見れば、女性の一貫性の無さ!、女はひどい!ということになる。
しかし、女性は一貫性を持って、人生を過ごす実力に欠けると言った方がよいかもしれない。
 
女性は、不安を持ちやすく、情緒も不安定になりやすい。それも、自分で、そこから脱するためのスキルに欠けるからだと思う。
 
この映画には、精神科医師も登場する。その治療の様は、全くひどいと、ウッディアレンの声が聞こえそうである。現実のウッディアレンが、自ら受けた精神科治療が、全く無力であったとの過去の経験を持つのだろう。精神科治療を非難したいようだ。
 
実際の精神科医とのやりとりの経験を元に、ウッディアレンは、脚本に書いたと想像してしまう。
 
映画では、患者が医者にアドバイスを求めているのに、それに医者が応じられない。精神科医は、ウッディアレンを「なるほど!」と思わせるような意味ある言葉を、一度も吐けなかったのか・・・。
 
映画の中では、夢判断を治療の手段としていた医師が登場する。
この映画がつくられた時代には、夢分析を用いた治療法が、ニューヨークで行われていたらしい。
費用のかかる治療法であるだろう。凡庸な精神科医が、夢判断のようなまやかしに近い手段を使って、治療を長引かせ、治療費をかせいでいる!と、映画監督は、怒りのメッセージを送っているようだ。
凡庸な患者が相手なら、夢分析が機能するが、俺(ウッディアレン)には、機能しないぞと言いたいようだ。
 
しかし、現実問題となると、精神科医は、人生相談役ではない。
ウッディアレンのようなクライアントが受診すれば、精神科医は、躁病の患者として、治療の対象と考えるであろう。実際に、ウッディアレンは、自らを躁病の患者として、画面に登場させている。
つまり、患者には、病識もあるのである。
 
しかし、医師が、治療の必要性を説いても、クライアントが躁病の苦しさを自覚しない状況では、クライアントから逆襲が来そうだ。
 
頭が良くてすごい記憶力、そして雑学的知識の宝庫のウッディアレンを前に、凡庸な精神科医であれば、治療効果をあげるわけはない。クライアントの方が、博学で実力が高い場合には、治療が機能しない。
 
これと似たようなことが、最相葉月の“セラピスト”にも、でてくる。メンタルトラブルに悩む最相葉月は、箱庭療法治療を行う臨床心理士に、不満と不信感を感じたと、“セラピスト”に書いている。
 
以前、本ブログに、私は、最相葉月の“セラピスト”について次のように書いた。2014/4/20(日) 午後 6:00
著者の最相は、臨床心理士の仕事ぶりに、疑問と不信感を抱いている。
最相は、カウンセラーの平凡さにがっかりしている。最相の方が、人の心を必死で考えているからだろう。
箱庭療法のように、型があるやり方では、耐えられないのだ。
 
結局、能力のある人は、他人の仕事ぶりに満足せず、自らのメッセージを社会に発信するしか無いらしい。
映画を作ったり、本を書いたりである。
 
ウッディアレンに代表されるように、映画は、社会へのメッセージを発信する重要なツールだ。
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