酷評する評論家に対しては、「評論家はジェラシーから、物を言う!」と、製作者は考えれば良いのだ。

 
 
一般人が、ネットの映画や書籍のレビューなどに書きこんだ論評を読むと、他人のさまざまな考え方を学ぶことができる。
 
正当と信じていることが、この人には正当でないんだ!と、驚くこともある。ネットの文章は、必ずしも本音が書き込まれているわけでもないので、そのあたりも、いろいろ考えさせられる。
 
知らない他人が書いた文章に触れる機会は、ネット時代になって、飛躍的に変化した。
 
ネット時代の前には、読書や映画を観賞した後に、一般人が感想文を書いても、新聞や雑誌などに載ったりはしない。つまり、誰にも読んでもらえなかった。
 
一般人が、雑誌社に投稿した原稿の多くは、編集者によって没となってしまう。
編集者にとっては、活字にする価値がないからだ。
結果、一般人の感想文(レビュー)は、投稿者と編集者以外の人の目にふれることはなかった。
 編集者が、優れたレビュー、美しい文章と判断したものしか、活字にならない。
そんな時代が長く続いた。
 
ところが今は、誰でも文章を書いて、他人の目にさらすことができる。
思うことを文章に書いて、ネットに載せ、個人的な考え方を、広く披露することができる。
そして、共感する人を探すことが可能だ。
 
誰の考え方でも、文章は活字になり、面識もない知らない他人が読む事が出来る時代となったのである。
 
文章は、わかりにくくても、意味が通じなくてもかまわない。落語の落ちを理解しないで、その落語をけなすこともできる。
呼んだ人から、「あなたは落ちを理解していない!」と言われることもあるし、誰にも注目されないこともある。
出す情報の質は、問われない。
 
映画や本の作品のレビューのサイトは、投稿者は、匿名であるため、本音や、口では言えないような悪口も書きこめる。
 
悪口の書き方には、大きく2種類あるような気がする。
つまり、映画や本のけなし方には2種類がある。
 
一番目は、常識的な、けなし方である。
「私は(映画・本の)ここに問題があると思うし、全体的に見ても、この作品は私の好みではない。しかし、○○が好きな人には良いかもしれない・・・。○○を見たい人には価値があるかも・・・」 
 
投稿者は、その作品を評価しないが、他の人は、他の評価があるかもしれないと結論する書き方となる。
投稿者は、レビュー欄に書きこんだコメントは、あくまで投稿者自身の印象に過ぎない事を十分に意識する。
一応、これから見る人へ配慮が感じられるレビューである。
 
二番目は、とにかく、けなすことが目的と思えるような書き方である。書き手は、自らが感じた作品への評価や印象が絶対であると印象づけようとする。
 多くは、激しくけなすレビューであることがほとんどだ。投稿者がけなす文章は、投稿者の自信にあふれている。意図的に、作品の質を落とそうとするものである。
 投稿者の評価は正しいし、他の人も、投稿者と同じような印象を持つであろうと断言する。
この作品は、ひどい内容であり、見る価値に価しないと・・・・。
 
誰でも、自由に書ける状況は、社会が健全であることの証拠である。
 
技術的には、ほめる文章の方が書きやすく、けなす文章は書きにくいのは確かである。
けなすためには、それなりの根拠や知識が必要である。
製作者や作品の、どこに問題があるかを、しっかり書かなければならない。
しかし、こうした熟慮がなくして、ただただ、恨みをもつかのようにけなすだけの(レビューもある。
 
わたしの拙著「女性ホルモンという名の神話」を出版した時、アマゾン読者レビューでも、すぐ、悪口が書きこまれた。
内容が間違っているとか、根拠がないとかいうけなし方ではない。
「内容が現実離れしている。こんな本を買うなら、お茶した方がまし!」というものである。
 
素人作家であれば、悪意に満ちたレビューを書きこまれても、それが本の売れ行きに影響はないだろうし、他人の考えを知るチャンスになると考えるしかない。
わざわざ、こうした文章を書き込む人がいるのか! 同業者か?などと妄想する。
 
しかし、職業として作品を作る人にとっては、悪意に満ちたレビューというのは、つらいだろうし、腹立たしいと思う。
 
ネット情報によると、たけしが批評家を批判する記事が載っていた。
たけしは、「評論家はひどい連中だ!」と言ったとのことである。
この記事によると、「評論家って監督やりたかったんだよ。しょせん。自分がやったらもうちょっと違うみたいな感じでくるから・・・・・悪い映画。嫌いだったらけなさなくて、いい映画だけすすめればいい。嫌いな映画をわざと嫌いに書く必要がどこにあるんだ!」
ネット記事に、たけしは、このような怒りをぶちまけたと書いてあった。
 
率直なタケシらしい言い方である。実際に、映画を作る人の立場になれば、ただけなす論評は、本当に腹立たしいものであるだろう。
 
しかし、それで監督が傷ついていたら、映画はつくれない。
「映画をけなしてくる批評家は、批評家自身がかかえるジェラシーやコンプレックスをさらけだしている!」と、タケシ自身は考えている。 
 
酷評する批評家には、「評論家はジェラシーから、物を言う!」と、製作者は考えれば良いようだ。
それが、酷評にめげない技だろう。
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