映画なり、文学なり、誰かが作った作品のレビューを書きたいと思う人は、書き手がプロもアマであっても、自らの感想を、他人に知ってほしいと思う気持ちになっている。
しかし、プロの評論家の論評と、アマの論評の違いは、感想文を読む人を、教育しようとするか、教育しようとはしないという点ではないだろうか。プロは、自らの専門知識を駆使して、見どころを解説し、作品の評価を他人に伝えようとする。
プロの評論家が、作品に価値がないと思えば、その結果、その作品をけなすことになる。プロは、解説文を書く必要があるのだが、つまらない解説にならないよう、気を使うだろう。プロの評論家にとって、けなす文章を書くには、覚悟が必要である。
アマも解説はするが、教育のためという上から目線はないはずだ。アマの書くレビューの方が、めちゃ、けなすものが書ける。けなすと言う事は、プロと同様に、返り血を浴びることもある。返り血とは、書き手の評価をさげることである。
けなすという行為は、その人にとっても、リスクのあることなのだと思う。しかし、共感する相手をさがしたいというポジティブな目的はある。本当につまらないと思うなら、書くのもばかばかしいとなるかもしれない。けなすという行為は、複雑な感情が混ざっているだろう。書き手の自己主張を感じる。
日常生活でも、誰もが、多かれ少なかれ、他人からけなされる経験をもつ。
けなされれば、誰でも、落ち込む。
自らの無能やミスを自覚させられると、なおさらつらい。
しかし、けなしてくる相手の弱さやコンプレックスを見つけたりすると、けなされた側の人の落ち込みは軽くなる。
けなされて落ち込む時、相手の状況を思い計ることは、ダメ―ジを少なくする工夫でもあるだろう。
けなすための文章を必死で作っている人の心境を想像すると、興味深い。
つまり、けなすレビューの文章を読むと、人生を学べるヒントがみつかる。
他人の考えの問題点や、書き手の嫌悪の中身が良く見えてくるからである。嫌悪の中身が、時に理不尽であったり、方向違いと感じることがある。つまり、他人との意見の違いの溝の深さを知ることができる。他人とうまくやれない時の、参考になるだろう。
たとえば、思い出のマーニーのレビューを読んでいると、けなすレビューは少なくない。ジブリなど、もう解散してしまえば良いなどとの書きこみもある。
アンナが、他のお友達とは親しくなれず、マーニーとだけ心をかわすのは、アンナの性格が悪いからという書きこみもある。マーニーは、お金持ちのお嬢さんで、美しい。そんな人にだけしか、興味を持たないのは、アンナの性格が悪いからと書きこむ人もいる。
金持ちで美しい人に対する書き手のジェラシーを暴露しているのだが、書きこんだ本人は、作品をまじめにレビューしているのである。
確かに、美しく金持ちの人は、冷たいし、愛をつくしても感謝もしないかもしれない。しかし、それは、アンナが今後に学ぶことであろう。
アンナが成長していく過程で、美しく金持ちの人の問題点にアンナは辟易して、そうした連中を大嫌いになるのかもしれないが、今はまだ、そういう状況ではない。
少女が美しいもの、豊かなものに憧れるのは当然であるし、マーニーへの憧れは、素直な感情である。
人は誰でも、特に子どもは、満たされることが心の成長に、とても大事だ。
幸せを感じる人は、いろいろと周りにもやさしくなれるだろう。
アンナは、誰にも気兼ねなく、自由な時間を満喫でききたことが最大の幸せであった。それは、彼女は、想像する才能が豊かだった。
元々、想像力や才能の豊かな人は、他人の供給するものには満足できない。その人が作り上げたものでしか、満たされない。アンナは、自らが憧れている物、豊かなものを夢見ることができて、心の余裕ができた。
アンナは、他人が提供したものに満足せず、自らの空想の世界にひたりきれた。その時、心の求めるままに、アンナは行動した。良い子を装って、ふるまう必要も無かったのである。
アンナは、自ら考えて、勇気をだしたり、挑戦をしたりして、自分で答えをつかんだ。
彼女は、そうした才能がある少女だった。
自分で自分を満たすこと、自分で勇気を出して挑戦する事が、人生で重要であることは、大人にとっても同様である。人は自分に問うて、自分で答えを出している。
それが後悔をしない人生に大事である。
自分に問うて、自分で答えを出すことが不得意と感じる人もいるだろうが、その人なりに、自分で答えを出して、前と信じる方向に進んでいるだろう。
自分を満足させるのは、自分しかない。
それぞれの人が、自らが信じる前の方向へと、歩を進めていくのがベストであると、アドラーの心理学でも言っている。
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