あいまいさへの理解が、病気の理解には一番大事。断定的な言葉は、人の病気ではあてはまらない。

 
小学校の校庭では、子どもたちが体育の授業を受けていた。校庭には、ゴムで作られたバーが張られていて、そのバーを飛び越える、体育の跳躍の授業である。パーの向う側には厚いマットレスが置いてある。
 
先生の指導の後、小学生の男女が、次々とバーを飛び越えようとする。その様を見ていると、人の能力と志向(性格)は、実にさまざまであるなあ・・・と、しみじみ感じる。
 
勢いよく走ってきて、そのまま難なく飛べてしまう子ども、走りは良いが、バーの直前で足踏みしてしまう子ども、テレビスポーツ番組の見過ぎなのか、一流選手の跳躍のように、体を倒して腹這いでバーを越えようとする子供、
足を上げるタイミングが遅れて足をゴムにかけてしまう子ども、
せっかく飛べても最後に足がぬけずにゴムが引っ掛けてしまう子ども、
走ってくる姿からしてぎごちなく、とても飛べそうもない子ども、などなど。
 
子供たちは、皆、まじめにバーを越えようとする気持ちは一緒だが、その子のもつ運動能力やら、勇気やら、チャレンジ精神やらが、実に多様なのである。こうしたゴム飛びのやり方を見ていると、性格やら、能力やら、1人1人が持つ個人差の大きさが、残酷にも思えてくる。
 
当たり前なことではあるが、能力の個人差というのは、誰もが自覚している。
今さら、とりたてて論じるものでもないが、人の能力の違いは、悲しくも、むなしくも現実にあり、結局は残酷なものであると思ってしまう。
それは、個人差というのが、全く同様に、病気にたいしてもあてはまるからである。
がんの発生を抑える能力、がんの転移を抑える能力、抗がん剤に対する感受性と、副作用の出方の個人差は大きい。
 
同じ診断名の病気であっても、病気になる人が人間である限り、その人が病気に対して、どのように対処するかが、実にさまざまであるのだ。
病気を得た人の、心の取り組み方と、その人の持つ免疫力の違いは、それぞれに実に違っている。
 
免疫の多様性は、他の人が病気に負けても、誰かが生き残るためのしくみである。
 
がんと闘うな!と本があるが、病気の個人差の前では、がんと闘うな!と、ひとくくりに論じることは許されないと思う。病気の解説は、著者の都合に合わせて書いてしまうことができる。しかし、断定的な言い方は、それが専門家の間であれば許されることであっても、理解が不十分な一般人が読めば、言葉が独り歩きをしていまう。
 
ある一般の男性が、御自身のがんの闘病記のブログを、ネットに書きこんでいた。
腹部にがんを抱えたこの男性は、手術は受けて、がん切除をした。しかし、この男性は、がんと闘うな!の本の主張に共感していた。本には、「抗がん剤は、毒薬である」と書かれてあったことから、主治医からがんの治療薬を勧められても、拒否したとブログに書いていた。
 
しかし、術後、しばらくして、腹部症状が出てしまい、近所の医者にかかったところ、腹水がたまり腹膜炎であると診断された。その時、この男性は、「腹膜炎か!それなら、すぐ治るだろう。」と考えたと、ブログに書きこんでいる。
近所の医者から、手術した病院に戻るよう言われ、入院を勧められたが、手術した病院の医師は、がん性腹膜炎との診断で治療困難と言われ、鎮痛剤しか処方されなかったようである。
 
がんの手術の後に、腹水がたまることは、即、がんの再発を考えるべきと思うが、この男性には、そうした理解はなかったようである。医者の説明はあったかもしれないが、男性は、がんのしくみを理解はできなかったようである。
 
実際、この男性が、抗がん剤をうけていたら、どうなったかはわからないが、がんと闘うな!の本を読んだことが、この男性に、主治医の言葉を受け入れない状況をつくってしまった。
 
「抗がん剤は、毒薬であるから、抗がん剤療法を受けないこと!」は、センセイショナルな言葉で、一般人に、誤解を生じやすい。
がんの治療には、抗がん剤だけとりだして論じることができない。
 
手術が必要なのはなぜなのか?手術をして、得られたがん組織を調べた結果はどうであったのか?手術時の転移の状況はどうなのか?については、このブログは、一言もふれていない。
 
がんと闘うな!と本を書いた医師は、いくつかの抗がん剤が有効ながんの名前をあげていて、その他のがんについては、抗がん剤の治療効果が低いこと、予後の悪さを論じている。手術により体力の消耗、術後のがんの免疫の低下、など、著者の医師は、医学的な問題を論じながら、がんと闘うな!論を、展開している。
 
しかし、この本の言わんとしている事を理解するためには、読者自身が、もっと、もっと、がん一般論について、知っていることが前提である。一般人は、「抗がん剤は、毒薬である」などの、センセイショナルな言い方にふりまわされてしまうのだ。基本的なことで、がんのしくみを理解し、生体の反応について、主治医と話会わないといけない状態であったと思う。
 
そして、患者は、何を理解していないのか?について、主治医は探らなければいけないし、患者自身も、理解できていないことを主治医に伝えなければいけないと思う。しかし、理解できていないことに気づくことは、難しいことであるのだと思う。見えないものは、他人から気づかせてもらわない限り、見えないのである。
 
安全な抗ガン剤などは、あり得ないが、抗がん剤のために早く死んでしまってはならないようにと、医者は考える。この男性の主治医は、熱心に抗ガン剤を勧めたと言う。しかし、男性のがんへの理解を深めさせてあげることができなかったようだ。
 
先ほどの、跳躍にチャレンジする子供たちと同じように、人の能力は、さまざまで、どの人として同じではない。
 
各人のがんへの反応が、同じでないということは、将来、その人のがんの進行についての医師の判断には、限界があると言うことだ。
 
そのあいまいさへの理解が、実は、病気の理解には、一番大事なのである。断定的な言葉は、人の病気ではあてはまらないのである。
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