○○新聞のSTAP問題についての読者コーナーに、文章を書きこんでみたが、今のところは、私のこの文章は、ネットにアップされていない。
この新聞社の読者コーナーは、投稿内容に問題がある場合は、載せないとの断りがある。
私の書いた内容が、新聞社は、やはり、気にいらないから、ネット版に載せないのか・・・。
私が書いたものは、以下のような内容である。須田記者が、せっかく、丹羽氏、笹井氏を熱く取材して、その時の様子を時系列で克明に紹介しながら、最後は、STAP捏造論で結論してしまった事を、須田記者も後悔しているのではないか?と・・・。
今後、さまざまな刺激後に、万能細胞が出現したとする研究が出た時、須田記者の解説を楽しみにする人もでてくるかもしれないのに・・・。捏造説一辺倒では、将来の新型の万能細胞の芽をつんでしまう行動ではないか。
今後の須田記者は、理研の悪口を言う文章しかを作れないし、彼女自身も、本心は、両サイドで書きたかったのでないか?と言ってみた。それは、上層部にうち消された可能性がある。彼女は、笹井氏に信用が厚かったようだから、記者としてのみ込みの良い人だっただろう。女性はこうして、利用されつぶれていくのか・・・・。
この読者コーナーには、いろいろな読者がSTAP批判の文章を書きこんでいるが、血税を無駄にしたとか?税金を返せ!という主旨の文章が多い。調査を徹底させろ!とかもあるが、具体的な展望はない。
こうした税金返せ!論は、役人の給料問題が出てきた時などにも、しばしば、話題になる。
公的機関へ勤める人へのいやがらせである。役人と言えど、働いた報酬をもらうのはあたりまえである。公的研究所の研究者は、研究して給料をもらっている。
これも、社会的コンセンサスの得られた報酬である。
野依氏の辞任の時に語った言葉である、「研究は自由な発想でやるもので、その責任は、研究者にある。」は正論であると思う。辞任しないで、言ってほしい。
研究者の不正で、研究所のトップが交代になるのはおかしいと、彼は言っている。
理研の辞任と論文問題は別であると、野依氏は言っている。
野依氏は、光学異性体というのを、製造可能にしたことでノーベル賞をもらっている、かけがえのない才気あふれる人である。彼の教えを受けた人によると、とにかく天才的な人であったと言う。
こうした人が、文科省やらの権力からの圧力で、責任を取らされるのは悲しいことだ。文科省の役人や大臣は、いくらでもすげかえ可能だ。その立場にいるから、そう立ち回る権限が与えられているだけだ。
当て職の人が、彼の才能を理解できていれば、こうした”知”のすげかえは考えないと思う。
彼や笹井先生に限らず、研究者とは、かけがえのないすごい人である。どうして、そこを受け入れない人がいるのか?特殊な才能のある人は、交代可能では無いし、すげかえができるわけでないのである。
つまり、その人がいなければ、研究成果はなくなるもののだ。
税金を返せ!と叫ぶ人には、その人の治める税金の額も問題だが、その人が税金を納めるために働いた仕事が、その人でしかできない仕事だったのか?を問いたい。
もっと、人は、自らに謙虚になりたい、なるべきだ。その方が、幸せで、建設的な人生を送れる。
殆どの人は、悲しいかな!、すげ替え可能な立場だ。私は違うと、胸を張れる人は、どの位いる?
但し、こうした切り返しは、相手を傷つけるだけで、討論として有用でない。
こちらが、エネルギーを使って、討論する目的は、相手が少しでも、こちら側によってくることを期待している。相手を怒らせても、良い事は何もない。
とりわけ、相手をけなすことは、後味が悪い。
相手が、弱い立場で反論ができない場合は、こちら側の傷も大きい。
研究をするには、まず、才能が必要である。
宝くじに当たるような運が必要である。殆どの人は、宝くじに当たらない。
それを嘆いて、どうなるのだ!
研究とは、常に激しい競争にさらされ、足をすくわれ、答えのない難題と格闘して消耗する日々にめげないエネルギーを保てなければならない。周りは、才能のある人ばかりだ。
優秀な人ばかりの中で、劣等感に悩むより、そこそこの所で、指導力や存在感を発揮できる場所は多い。努力がものを言う場所もある。
かつての理研の研究者は、新規の論文を書かずとも、定年まで、ポストが確保されていた。
多分、まだ、こうした層の研究者がいるはずだ。
ところが、最近は、神戸のCDBのような、期限付き研究員が多くなり、こうした短期ポストの人は、厳しい競争にさらされている。
つまり、従来の理研の職員からすると、新しい雇用体制を引いていて、研究成果が出やすい神戸理研は、目の上の“たんこぶ”なのだ。今回は、こうした理研内の層の抗争もあると思う。
しかし、科学界、政界、マスコミ界の共同作業を説明できるのは、学閥しかない!。
一般人が、そこに気づき、声をあげれば、フェアな競争が可能となり、学閥で固まるのは恥となる。
理研の新理事長が、京大総長で内定したことも、そうした配慮ではないか?と思う。
実は、マスコミによる専門者いじめは、医療機関にも向けられている。
いかがわしい治療を提供する医療機関を問題視せず、難しい医療を担う病院医師を非難する。
このドクターに問題があるとして激しく糾弾し、そのドクターがとんでもない人であると、記事で印象づける。
しかし、そのドクターが辞めたら、その技術をやれる人たちがいなくなるのである。
しばしば、マスコミは意識的に、後のことを考えずに、ドクター糾弾をくりかえす。
マスコミは、情報を先に持つ立場であり、そこを生かして、一般人を納得させる立場なのに、そこができていないのじゃない?
記事を書くのが、やたら、若い人であるのが気になる。若い人は、良い記事が書けるとは思えない。
人は、経験と年齢を重ねないと、指導的で価値ある記事が書けないと思うよ。
須田記者が、あの若さで、多くの人を納得させる記事を書くのは、無理だと思う。
本当に職場に問題のある人がいたなら、一緒に働く人たちが、糾弾の声をあげるものである。
問題点があった人でも、それに勝る能力がある人ならば、その人をかばう人が必ずいる。
周りの人はその人の仕事を認めているし、その恩恵に浴する事があるのである。
例えば、研究所なら研究成果であり、病院なら、見習いの医師であり、患者さんである。
つまり、専門的な仕事は、周りの専門者から、十分に監視され、切磋琢磨されて機能している。
専門的な職場は、周りからの協力がなければ、成果を生むことはない。
専門的仕事につく人は、そこで勤めなくても、我慢できないと思えば、そこを出ていく。
我慢して、下手な教授の手術につきあったりしないと思う。
問題が起きた時、外部の人たちが、ずかずかと内部に入り込んで調査しようとしても、結局、意味が無い。成果無きまま、学閥、派閥の抗争の場となるだけである。
こうしたことがわからない人たちやマスコミは、表面的な調査に、糾弾を繰り返すだけである。
どうすれば解明が可能になるか?の展望を示せなければ、マスコミが指導的立場に立つことはできないと思う。
文章を読んでも、意味のない言葉の並びにすぎなければ、人はもう読まないのである。
コメント
No title
2015/03/29 URL 編集
No title
小保方氏に対するマスコミの扱いはひどいものです。なぜ博士号まで調査する必要があったのか?
最初から叩こうという意図があった気がしてなりません。
2015/03/29 URL 編集