叱っても良くならないことを、人々は知っているのに、なぜ、マスコミや権力者は、専門職に対して、非難したり、脅してみたり、改善しろ!とせまるのだろう。

子育てが、親の思い通りにならない事は、誰でも知っている。
 
どんなにがんばらせても、お金をいくらつぎこんでも、優秀な家庭教師をつけても、頭の良いわが子にすることは、親にはできない。ある程度、成績を上げることはできるかもしれないが、最後の競争で、頭の良い人にかなわない。
 
がんばらせれば、がんばらせるだけ、子どもがいじけたり、自信を喪失したりして、学校へ行かなくなるかもしれない。
 
はては、子どものメンタルが悪くなって、体の症状となり、お腹を痛がる、頭痛を訴える、反抗的で意地悪な子どもになるかもしれない。
 
こうした様子を見て、親はあきらめて、反省するのが普通だ。
 
子どもに限らず、皆、自らの夢や理想を、他人に強制できない。相手をコントロールしようと、怒ったり、脅したりしても、結局、自分が損をする。
こうした経験を理論化すると、アドラーの心理学のようになるであろう。
 
他人に期待せず、あきらめる自分を受け入れる。そうすることで、その人のメンタルを改善する方向へ持っていく。ポジティブなあきらめ方と言えるかもしれない。
 
こうした子育ての経験を通じて、叱っても良くならないことを、人々は知っているのに、なぜ、マスコミや権力者は、専門職に対して、非難したり、脅してみたり、改善しろ!とせまるのだろう。
 
STAP事件の時も、理研理事長に、若い新聞記者が聞いたそうだ。
現在の理研の対応は、何点であると思うか?」
 
の質問に対し、野依氏(当時は理事長)が、「君は何点だと思うか?20点か?」と、野依氏は、逆に女性記者に問い詰めようとしたが、彼女は、「5点だ!」と答えたと言う。
 
政治家やマスコミは、相手を毒ついて、自らの優位性を誇示しようとする。
私の後ろには、多くの国民がついているぞ!と言いたいのだろう。
しかし、毒つき方が、一般人の支持をえないと、自らの人気をさげることになる。
 
彼女の言葉は、将来の記者としてのキャリアには、マイナスだ。夏夜の、花火のようなものだ。燃えがらの花火跡をひろう会社はない。
 
いづれにしろ、他人を毒づく事に対して鈍感で、他人を配慮する姿勢が欠けていないと、政治家やマスコミは務まらない。

以前の話しであるが、学校の先生たちに何かの調査をやらせた時、調査がうまく進まず、国会で文科省の大臣が「現場(教師)にお尻をたたいて!たたいて!やらせているが、うまくやれていない。」と答弁していた。
 
調査そのものが、現場の常識とかけはなれていることを、この大臣は知らないのだ。
なぜ、進まないのかを、考えてみることができないのだ。
ただ、権力を使って、強引に調査しようとしている。
 
現場は、意味の無い数値の結果をだして、上層権力からの要求に体裁をとりつくろう。
やらせた文科省大臣は、でてきた数値を示して、得意げになる。その数値が意味するところをわからなくても、大臣はメンツがたつことと、体裁が必要なのである。
 
しかし、こうしたものこそ、真の税金の無駄使いと言えるものではないのか?
 
今回のSTAPの調査も、出てきた結果を見れば、上からの圧力により、理研の現場研究者がやらされた意味のない調査にすぎなかった。
 
なにより、調査委員会が中立性に欠けていた。STAPは無い!、あるとしたくない!そうした価値観が、調査委員会の委員たちの間の、共通意識なのだ。
 
STAPに興味のある多くの一般人は、何か、公正なもの、科学的根拠のあるものを期待したに違いない。しかし、現実は、意味のない調査結果だったである。
 
一般論として、専門的な科学論文の審査は、“仲間たちによる審査”と呼ばれる。
同じ立場の人たち同志でお互いの論文の審査し合うスタイルをとる。
なぜなら、仲間たち以上に、さらに上級者の立場で審査出来る人たちがいない!(仲間たちが最高の判定者)という意味なのである。
 
専門的領域の論文は、専門者同志でなければ、評価できない。
論文の内容は、世の中にまだ、明らかではなく、新しいものである。
依然として試行錯誤が続いている課題である。
つまり、正しいかどうかが、判定できない状態であるのだ。だからこそ、論文になる内容なのである。
 
研究者同士で、調査、議論しても、結論は必ずしも認められない。
 
だから、専門者は、過去を振り返らずに、新たな実験に着手して、もっとしっかりした手掛かり探しを続けるのである。
 
論文を投稿する時には、学閥派閥の弊害を避けるために、論文の著者は、審査して欲しくない研究者、審査して欲しい研究者の名前を書き込むことができる。専門的な審査に、中立性を理想としてかがげているが、現実はそうならない。激しい競争の世界であるので、研究者同士で、つぶしてやろう!認めてやらない!とのかけひきがあるからである。
 
沢山の人に知識があり、正しいことと、正しくない事が決まっていれば判定は可能である。しかし、そうしたものでない専門的議論になる領域では、公正な評価や調査なんて、ありえないということを、今回のSTAP事件は示したのではないか?
 
STAP事件は、犠牲者を生むほどに、研究者の人権がかかった論分不正問題であった。
しかし、多くの一般人の期待にもかかわらず、専門家による調査結果は、正当性を欠き矛盾するものであった。馬鹿にしたような奇妙な結果に、人々はがっかりした。でも、それが、現実である。
 
ネット情報の普及により、一般人が趣味として最新の科学分野を勉強することができるようになった。
お互いの知識を持ち寄って、ここがおかしい、ここが矛盾すると、意見をのべあうこともできる。そして、STAP事件が起きて、人々が科学的事件をウオッチする過程で、科学界への猜疑心が高まった。
 
世の中の出来事をウオッチする目が高まれば、多くの人が日本の科学研究の方向が見えてくるであろうし、税金の使い方にも影響を与えるようにもなっていくであろう。何に研究費を使ってほしいか?は、政治家や研究者だけの興味ではないのである。
 
ガラス張りで国民から見られている科学界の専門家は、もはや閉鎖的であることは許されず、一般人を愚弄するような発表をしたり、密室主義的な判断はできなくなるだろう。学閥で固まることは、趣味の世界で通用するにとどめてほしい。
 
研究者の努力や才能に対する国民的理解も進んで、マスコミや政治家の理不尽な研究者叩きや不正叩きも減って行くだろう。

STAP事件を、今後の反省と展望につなげてほしいと思う。
 
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