前回のブログで、誰でも悩まされる症状、症状の原因が多岐にわたる場合は、大規模な新聞広告をしてはいけないと書いた。これこそ、無駄な医療費につながる。
昔から、人間は病気を治せなかった。しかし、治せる人が欲しかった。
そうした人間の願望が、医者という職種を作った。
医者は、魔術師のようなもので、大昔からいたと思う。
そして、人は経験と知恵を何千年も積み重ねて、体に作用する物質も探し、薬とした。
病気になりたくない願望が、医者や薬の対する過剰な期待を作ってきた。
時代劇の中で、病人や医者が登場する時のせりふに、
「おいおい、その時代は、そんなこと、わかっていないよ」と、笑えるものがある。
動物は、なぜ、尿を作れるのか?は、大変な疑問だったと思うし、人が考えたり、見えたりできるのは、なぜ可能なのか?もわからなかった・・・・。
人の体の働きのすべてが未解決であった。
今も、わかっていることは有限であるが、わからないことは無限である。
医療訴訟は、医者はわかるはずが、わからなかった!助かるはずが助からなかった!で起きてくる。
人は、病気になりたくない、病気になっても、薬で治して欲しい!と、誰もが願う。
患者さんに初めて病名を告げる時、患者さんの言葉の第一声は、「治りますか?」である。
切羽詰まった時、人が藁にでもすがってしまう状態になっている時、藁を投げてはいけない。
しかし、ネットは、でたらめな広告に溢れている。
なぜ、内服薬で、皮膚のたるみがとれるのか?
説明できていないではないか?こうした嘘を、大企業がしていることが悲しいことだ。
こうした物品が、ネット販売に限られているのは、いざ、摘発された時には、メーカーにとってネット販売は、都合のよい言いわけの効く販売形態なのだと思う。
ネット販売は、買う本人の意志がとても強いと判断されるからなのか?本人が、自らその気になって買ったのだから、すべて自己責任とみなすとすることが、慣例になっているようだ。
多分、ネット情報は、商法などの法的しばりが、未解決な部分なのではないか?
大規模な新聞広告で、新規で高価な薬を売るための啓発がされている現状は、問題が多い。
この弊害を避けるには、薬は副作用以外は、広告内容にできない!とか、そこまでの判断が必要なのだと思う。
副作用が広報されれば、効果も付いてくるから、情報提供の目的はかなう。 それこそ、新薬の理解につながるのではないだろうか?
広告は、一般人に医師への受診行動を起こさせ、処方を希望させる。
新聞広告につられて診療を受けにきた人は言う。
「この間の新聞広告に載っていた症状は、私の症状とぴったりだから、広告にのっていた薬をつかってみたい。」と、医師に話す。
その薬を処方するかは、医師の判断次第だが、医師の判断は、ピンキリである。
まだ見ぬ副作用を予想して、くわしく注意をしてくれるドクターもいれば、使いなれない分野の薬でも、経験が無くても、平気で処方してしまうドクターもいる。
たとえば、アナフィラキシーの時の、エピペン処方のように、医師が、アナフィラキシーの知識や経験もなく、エピペンの指導もできずとも処方は可能だ。
医師は、「それっぽい時に打ってください。解説書をよく読んでおいてください」とだけ言って、エピペンを処方してしまう。
外国のケースだが、エピペンを打とうとした人が、間違った部位を刺してしまい、指の切断などの事故が起きていることは、医者は知らない。
子どもの場合、学校へ持っていき、学校の先生に打ってもらえます。
などの説明するドクターもいるようだ。
学校はと言えば、理解が十分でない教育委員会あたりから、「職員はうてるようにしておきないさい!」などと言われてしまう。
普段から練習していれば、先生でも、的確にうてるようになるなどと言う無責任なドクターもいる。
いづれも、その状況を予想できないから、その難しさが想定できないのである。
一般人が、的確な時点でエピペンを打つには、救急救命室で、何カ月か、死にそうな人を相手に研修しなければ、的確な判断などは習得できないと思う。
問題ある医者であるように見えても、医者の評価は一筋縄ではない。
ある面では、駄目そうな医者でも、他の分野では、極めて優秀な判断ができる場合もある。
それぞれの医者の得意分野は異なるし、難しい判断を常にせまられて、答えをミスすることもあるのだ。
一般人の患者が、診療を受けた時、目の前のドクターについて、このドクターは駄目だ!と感じるのは、どんな時であろうか?
患者にとって、常識であった医学知識を、医者が持っていない時とか、説明が納得できない時とかが、医師不信が起きる時と思われる。
どうゆう時に、医師は患者から信用を失ってしまうのだろうか?
この疑問は、興味深く、このギャプを埋めることが、患者・医者の双方にとって、大事なことではないかと思う。
先日、母親と子ども二人(1人は乳児)の家族三人が気管支炎にかかり、三人とも、かなりのひどい咳をして受信した。
子どもは目の前で咳こみ、私は百日咳の可能性も視野において良いのでは?と、母親に話した。その時に返ってきた母親の言葉が興味深かった。
母親は、「実は、○○クリニックで、リン酸コデインを処方されましたが、気づかずに、1回飲ませてしまいました。」と、とんでもないことをしてしまったという風に語った。
母親も、新聞記事などの情報から、私たち母子の病気は百日咳かも?と想像したのだろう。
「おかあさん、百日咳をネット検索したら、リン酸コデインがだめって書いてあったの?」
と私が聞いたところ、
母親は、「そうです。でも、一回、飲ませてしまいました。」。と、言う。
こうした後、母親は、もう、○○クリニックには行かないだろうと思う。
母親なりの価値観で、あそこの先生はだめ!とか、医師の位置付けが決まってくるようだ。
軽い時は、○○先生、こじれてきたら、△△先生に行く、などの、医師の腕の順番なども、患者側にはあるようだ。
しかし、見切りをつけたドクターが、本当にだめなドクターかどうかは、結構、難しい判断だ。
患者側が、ドクターの資質の見分け方の的をはずしてしまったら、元も子もなく残念なことだ。
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