都議会で舛添氏の追及が続いています。
本日、行われた集中討論は、議論を白熱させるために、質問者は質問をまとめず、ひとつづつ質問し、個々で答える形式とし、その一部がテレビ放映で流されました。
しかし、舛添氏は、ひとつ答えるごとに席に戻り、又、質問に応じて席から出てくるという様相でした。舛添氏は、席から立ち上がり戻るまでに、時間をかせいで、答えを整理するのでしょうが、これでは迫力ある議論ができません。
米国の政治家の論戦などでは、お互いに即時に応答をしています。大統領選の論戦も即時回答を求められます。瞬時の言葉は、演者の本質を表します。
オバマは即時の追及や返答が得意でした。
舛添氏を席に戻らせないというのは、議長の判断でできそうなことだと思うけど、そうした戦い方が見たいですね。舛添氏の誠意をもって対応するというのは、席に戻らない姿勢ですね。
質問する議員の資質も、丸見えになります。この舛添氏の時間稼ぎは、見ていて残念でした。
今日の論戦の最後に、舛添氏は改選の選挙がオリンピックに重ならないようにしてほしいと言い、これは私利私欲ではなく、国家のためだと強調していました。
しかし、オリンピックと選挙日程など、役人がなんとかつじつまをつけるでしょうし、役人は粛々と仕事をこなすと思います。
やめていく知事が、気にするようなことではないのですが、舛添氏のそうした発言を聞くと、舛添氏はすっかり、ご自身が特別の人であることに浸りきっているという印象を受けました。
舛添氏は、文化、文学、歴史、言語など、おそよ教養と言われる知識の宝庫である人だと思います。だから、舛添氏は、美術館、博物館は大好き、外国に行けば、歴史のうんちくを語り、歴史あるホテルで特別待遇を受けることに大喜びし、ご自身が特別の人であると信じ、その自信を増強させる立場だったと思います。
舛添氏は、国会議員や大臣時代も特別扱いをされていたと思いますが、政治的権限という意味からすると、知事の方が強いです。
国会議員と違い、知事は人事権を持ちます。つまり、知事が好きな人を昇格させ、周りに集める事ができます。
知事の言うことを聞いてくれる人を集めていくことができるのです。
知事は、西洋文化に造形の深い人が好きでしょうから、そうした役人が出世している可能性があると思います。東京はそうした知識人の宝庫でしょう。
そうして、舛添氏には、東京を世界の文化の中心にしていきたいとの壮大な夢があるようで、それができるのは、私(舛添氏)だけとの自負もあるのでしょう。
今回話題になっている、筆や墨の問題も、舛添氏が書いた書を、東京都を訪れる世界の客人に送るためと言いました。世界の客人は、舛添氏の書を欲しがるそうです。権力者に許される特権です。
しかし、こうした自慢的な言い方は、今の舛添氏の弁明にはマイナスの効果しかありません。でも、舛添氏は、そうしたところに気づかないんですよね。
舛添氏は、ご自身が、特別の人であることにどっぷり浸かってしまったので、給料をもらわなくても、特別な人でいたいと言っているのです。
本日の都議会の委員会の知事の最後の言葉で、印象深かったのは、議員からファーストクラスやスウィートルームを使うことの問題点を追及された時、舛添氏は表情をむっとさせながら、
「今までのように、与えられた旅行日程をそのまま受け入れるのではなく、しっかり判断する」との言葉です。
これからは、役人が決めた高いホテルやファーストクラスを止めて、もっと安い旅行手段にするという言い方でした。
つまり、舛添氏は、追及されている公的旅行費用の問題などは、役人が決めたのをそのまま実行しただけ!私が決めたのじゃない!追及されることじゃない!と言いたいのだろうと思います。
こうしたところに、舛添氏が隠している怒りがちらつきます。口は平身低頭で謝っていても、内心は煮えたぎる怒りがあるようです。
記者会見の舛添氏は、何度も同じことを聞かれても丁寧に答えて、怒らないのですが、、その丁寧さが逆に、記者の質問をバカにしている印象を受けます。
舛添氏は、取り繕うためのポースで怒りを抑えている様子で、丁寧な口先の言葉は、記者のお相手をしてあげてやったぞ!との印象になってしまいます。こんなに時間をかけてやっているぞ!とのメッセージになってしまうのです。
たとえば、記者会見で
「だから、私はこんなふうに皆さん(記者)に対応しているのですよ」などと、恩着せがましく言ってしまうのです。
上から目線の記者会見のスタンスが、こうした言葉に出てしまうのでしょう。これは舛添失言の一種と言えます。
舛添氏がこれだけ追及されている様を見ると、小保方氏が追及されていた時のことを思い出します。マスコミの追及が厳しいのは、「お前は、悪いことをしたのだ!こらしめてやる!」とのメッセージがあるからでしょう。
こうしたマスコミ追及に対し、舛添氏はマスコミ周囲をバカにしていても、そうした心を隠し、表面を取り繕う作戦で正面から応戦したのに対し、小保方は、恐怖を感じて逃げるという対応でした。この違いは、やはり、体力の違いが大きいと感じました。やはり、生き残るチャンスを信じて、戦うには体力が必要です。
マスコミの個人攻撃は、決してほめられることではないのですが、止められないものでもあるようです。権力者が権力をちらつかせる時、権力の無い人たちは、集団で怒るしか手段がないのです。
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