舛添さんが「公明党」に見捨てられた、本当の理由
内容は、ベテラン記者らしい公明党に関連する興味ある情報をまとめたものである。
多くの証言や引用に基づいて、舛添氏の政治家としてのバランスの悪さが、書かれている。
特に、公明党を怒らせた理由がよく書かれている。
舛添氏は、公私混同の謝罪に失敗した。彼は、以前に「東京都民の血税を一円たりとも無駄にしてはいけない」と言ったそうだし、年金横領をした人に対しても「牢屋に入れ!」などと非難したらしい。つまり、舛添氏は、非難や他人を攻撃する時の言葉使いが強いのである。
舛添氏は、こうして強く他人を非難したくせに、ご自身の公私混同は別だったのである。これは、相手の信用を失うという意味から、致命的であった。舛添氏が口に出す言葉が、本音ではないということが、人々に伝わってしまったのである。
舛添氏の謝罪は、口先だけという印象を多くの人が感じてしまったのであろう。
舛添氏は、公明党に対しても、そうした“口先だけの人”という印象を与えてしまった。
過去のいろいろな事実が記事で紹介されている。
公明党は、協調性を大事にするためか、自我の強い知識人はいないし、テレビ討論でも建前論が多く、次々と前へ進む議論は得意でないように思う。
この窪田順生記者は、公明党の気質を巧みに分析している。
以下が記事の一部である(青字)。
辞意を固めた直後、ご本人が「公明党に裏切られた」と愚痴ったというのだ。
「潮目」が変わったのは6月13日、総務委員会で公明党の松葉多美子都議が「辞任」を迫ったことだからだ。
松葉さんは、昨年9月に豪雨で鬼怒川が決壊し、都内の一部でも避難勧告が発令された後、舛添さんがいつものように公用車で別荘へ向かったと事実を公表し、「危機管理意識が甘い。責任感が欠如している」と批判した。
また、公明党が東日本大震災の被災地への訪問を何度も促してきたのに、舛添さんは全く興味を示さなかった。
都知事に名乗りをあげた舛添さんに対して当初、自民党は冷たかった。厚労大臣で知名度が上がるや否や、後ろ足で砂をかけるように、「新党改革」を立ち上げたいわば“裏切り者”だからだ。
そんな頼りない自民党に代わって、鉄の結束で舛添さんを支えたのが公明党だ。
では、なぜ公明党は舛添さんを見切ったのか。
「別荘にいる時に首都直下地震が起きたらどうするんだ」という記者からの質問に対してこう答えた。
「全く問題ありません。奥多摩よりも、おそらく早く帰ってこられる。少なくとも時間・距離的に言うと、早いです。湯河原の方が」
創価学会のみなさんにとって、「奥多摩」というのは特別な意味をもっている場所だからだ。
池田大作名誉会長は、緑と人材あふれる多摩地域に、限りない未来の可能性を見出し、常々、「三多摩の時代が必ず来る」と語りました』
2014年の都知事選で、舛添さんは池田大作名誉会長の「三多摩の時代が必ず来る」という言葉と妙にかぶるこんな公約を掲げていた。
(舛添氏の演説) 「これまでの都知事は、三多摩地区を軽視してきた。東京23区だけが東京じゃない」「三多摩地域の発展なくして東京の発展なし」
三多摩地域の方はもちろん、創価学会のみなさんもこれには大いに期待をした。
●舛添さんのリスクコミュニケーションは失敗
今回、舛添さんのリスクコミュニケーションは完全に失敗だ。そういう特権階級的慢心に我々「衆愚」は敏感である。リスクコミュニケーションは弁護士や検事が用いる「詭弁術」ではないのだ。
以上が記事の内容である。この記事では、一般人を「衆愚」と呼んでいる。
「衆愚」というのは、へりくだった表現でもあるが、民主主義の根幹でもあり、政治家にとって怖い存在だろう。
「衆愚」自らは、十分な知識や教養がないが、知識人を評価して、尊敬も軽蔑も選択できる自由人たちである。つまり、「衆愚」に馬鹿にされたら、知識人は知識人でなくなる。
舛添氏は、豊富な知識に裏づけられて、議論や討論は得意であったであろう。他人の書いたへたな原稿などなくても自由にしゃべれる人だ。
学術的な論争なら、文献的知識が豊富で、自由にしゃべれる方が有利だ。簡単に相手を論破できてしまう。
学術的論破にたけた舛添氏は、相手を納得させようと、次々としゃべってしまった。
その結果、彼の本心(表面的謝罪と特権階級としてのおごり)が周囲にばればれになった。
謙虚さを演出することができず、以前にしゃべった内容とも矛盾してしまったのである。
「衆愚」は、特権階級の人から声をかけられて喜んでいたが、その憧れの人は、衆愚に声をかけたことすら覚えていなかった・・・・。
がっかりした「衆愚」は、舛添氏に対して裏切られた思いで、怒りがわいてきたのである。
舛添氏は、そうした「衆愚」の心を読むことが全くできなかった。
その結果、数で対抗する力しか持たない「衆愚」の反撃をくらったのであろう。
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